共同体と社会と孤独

神が死んで、西欧の人は孤独らしい。

10年前には社会と共同体は違う、とよく読んでいたが、最近は聞かないような。

人間関係と趣味の両輪があれば、私は生きていけそうである。

好き勝手する場(趣味)と縛られる場(人間関係)の両方が必要だ。

で、主人公は自由な竜を名前で縛ることによって手に入れた。

不自由でないと自由を実感できない、永遠の夏休みは怖いぞって銀魂の長谷川さんが言っていた。

人間関係(共同体)を求めるのは、なんつーかインテリ的にはあまりお勧めされていないような、AKBなのか読んでいないけど。

自由な価値観とは、私的には生きる意味で、生きる意味をはっきり自覚できない私である。

何をしても変わらないとニヒリズムの傍にいて、でも、何があっても変わらないなら、努力しようとしまいと結果が同じであれば、別に努力してもいいか、あえて努力してもよいか。何もないより努力もする苦しさも楽しく、苦しさも娯楽になる、のか?(この辺、長く書こうと思えば書けるのだが。id:Gaius_Petroniusさんに分析してもらいたいようなhttp://d.hatena.ne.jp/akizu/20150918にも少し書いているけど)

ただ、そこで、変わらないのならと反社会的な行動にも出れるというところで、ISISに行く若者の気持ちもわかったりする。

そこで社会に生きるのは無意味と思う人もいる、包括的な社会とは?は宮台先生の弁だが、うーん、引きずられて考えが浮かばないのだ。

せっかく神から自由になったのに、人間関係に縛ろうとするのか。

人が生きるに値する社会に人間関係はどこまで必要なのか?

人との触れ合いがなければ生きていけないというのは、私にとってはまあ真実で、それでいうとほかの人も同じだろうか?

私が選んで所属している感か、代わりのない場は強制的なものなんだろうか?

いや、情けは人のためならずというか、税金を多く払って社会保障が充実したら、巡り巡って治安も良くなるのか?