信じることと祈り
何事も結果は自分の思い通りにならないのなら、自分がどう生きたいのか行動を選択することだけはできる。
結果を加味しないのであれば、それはただの思いこみであり、何を信じるのか、ということである。
信じる、と言えば、根拠の無いことであり、一歩間違えれば狂信のはた迷惑なことである。
では、そんな「他人を信じることができない」ような不毛な世界で、なにを愛し、なにを信じれば、いいのか?という二項対立の問いがこの映画では表現されているように感じます。
そのもう一方の問いの答えは、イザが体現します。「なんの意味もなく、なにも変動しない」植物人間の女の子へ、愛情を注ぎます。ある意味変質者ですが(笑)。これは、移り変わる人の心に依存するべきではなく、意味のないものにコミットした方が、人生は幸せになれるという監督の絶望宣言でもあるような気がします。実にフランス映画っぽい。
昨日は、政治家の歯止めは何であるか、考えたんだけど、「意味のないものにコミットする」ような前提にするのはありえるのか。
意味があるから正当性も生じる。
意味のないもの、世界の無意味に向き合って、そっちのほうが世界へのアクセスが良くなる、、、
無理やりつなげるのは私の得意技だけど、つながらないのでしばらく放置する
結果にこだわらずに信じるのであれば、それは祈り、とも呼べるのではないか。
acim?とfinalventさんの過去の日記を思い出しつつ。
昨日は大学の同窓会でした。
否定されることは分かって教授に「アフター5に大学院に行きたいんすけど」と言うと
「君の仕事は基本つまらない。しかし、給料分以上働こうと思えば、面白いことも見えてくる。君はまだハマるものに出会っていないだけ。君ならできるって信じているよ。」
と言われました。言葉って不思議だな。