ニル・アドミラリ?

finalventさんの新しい古典を読むがめっさ面白い。

夏目漱石森鷗外芥川龍之介などが、「ニル・アドミラリ (Nil admirari)」として語った心性である。本来なら、この言葉は「何事にも動じない」という達観を意味しているが、彼らの心性は、むしろこの世界の意味が「はじめから不在だった」ことに向き合っている。 (略)

青年の前に置かれているのは、無意味な世界であるか、あるいは、無意味としなければ生きられないほどの状況の要請なのか。人は、自身が置かれた時代に由来する、戦争や革命、宗教的な純粋性といった擬似的な意味からの拒絶として「ニル・アドミラリ」を選択することがある。
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私は山本七平神谷美恵子のような存在がいるのならば、奇跡の存在を信じるし、=神は存在すると思うし、頑張って生きてみたいとは思うが、仕事で怒られると死にたくなるぐらいには、なんつーか、生に執着しない。

これって、つまり世界の無意味と向き合っているのか?

動物的にネットしていたら楽しいとは思っていたんだが、いまいちアンカーにはならず。

職場で独身同士で駄弁るに、僕は「会社の中でも外でも結婚していない人っていい人ばっかりじゃないですか。

その中から一人選んでそれでいいんじゃないんですか」

と言ったら、先輩に「私はもうちょっと私情を挟みたい」と返されたというか、

そうなのだ。私の幸や不幸は問題ではない。節子の幸や不幸は問題ではない。人は生きたということに満足すべきなのだ。

という本からの引用はまったくもって同意するのだが、

その薄さは、「人は生きたということ」が「はじめから不在だった」に対置されたからである。暫定であっても生が肯定された。それがこの哲学的な小説の一つの解であったとしてよい。

 しかし、この小説が透かせて見せる日本近代青年の純粋と性の問題は、十分には解消されてはいない。

解消されずに虚無(ってかっこつけていっちゃうけど)を持つ秋津君はいったい何、で、あるんである。

子供持ったら、依存されて、無理やり生きる意味ができるんすかね。

子供ができなかった時の意味の持ち方か、意味ってなんでしょうねと、暇があるからいけないんでしょうね。

finalventさんのファンを自認するが当然理解できない部分も多い秋津君ですが、この問題意識は引き継ぎたいかなっと。

っていうか、神谷美恵子の「いきがいについて」に関連するな、生きる意味は。巨人だ(というか肉体、性欲の問題は、以下略https://cakes.mu/posts/3247

何が起ころうと変わらない、とか、大当たりというか、だったら好きなことでもすればいいんだろうか?

映画で誰もが興味をひかれるお題は勝負?

不条理と選択肢の問題にも通ずる?