人生の不条理と選択肢

前回、没案にしたネタを書く。

うちの社にも数は少ないけど身障者枠はある。

で、一緒の研修を受けた。違うグループになったのはそれはそれとして、みんなでワイガヤのある研修だったんだけど、

最後のまとめで講師がその身障者の子を名指しで「木野君は意見を強く出し過ぎだね」と(もっとマイルドだったけど)言った。

釘を刺されるほどだったのか?とも思ったわけで未だに5年以上の前のことを覚えている。

で、前回、思ったことを言える場はない、と書いた。

男は外に出れば七人の敵?だったか、気を許す場があるなんてフィクションだと思う。

思い通りにはならないことにどう対処するのか。

でも、

を読んだら、気の合わない人と仕事しなくてもいい。仕事したほうが損が出る。

お金と付き合いのバランス、とあったような、とか、ずれたな。

彼女に、僕は何も考えてない、本当に困った時に人は助けてくれない、と言われたんだが、俺って不治の病なんだよね。

その辺の不条理に対する感受性は、一見そうは見えなくても飲みこんだ経験はある。

何に対して我慢できないのか、という点で仕事を選ぶと良い、でしたっけ?

耐えることのできない場面の選択肢か。

選択できるってことは不条理でもなさそうだが、とペトロニウスさんの書いたアフリカ系アメリカ人の不条理もすげいな。

選択肢をいかに残すか。

追い詰められたら開き直るしかなくて。

私に甘えがあるのは認めるに吝かではない。

人生で選択肢があるとはどういうことを指すのだろう?

いや、いつかは不条理にぶつかるんだろうけど。

不条理と選択肢のバーターを考えてみたいかな。

自死という切り札を持ちつつ、行使しない自由はあって、では何をするか、の選択肢はあるよな

(そろそろ中3日あけのブログ更新も辛くなり始めた8年目)