アホなことを書いた言い訳

彼女からやっと電話があったので、嬉し更新。

彼女、仕事が忙しくて2時を回らないと寝れない、とか言ってましたんで、心配していたのである。

寝ぼけた声で、ゆっくり出来たようなのでよかった、よかった。


それはともかく、前回、勢いで書いちゃったな〜みたいな。

なんで、いきなり商店街的なものに飛んだかといえば、前々回の「クラウズの否定か、皆個々の否定。」と書いたのを受けている。

資本主義がおもろいなと思うのは、離れた人でも価値が共有できるところかな。

でも、クラウドソーシングは安値であるらしい。信頼が幾分価値に影響していて、信頼なんて数値化出来ないものか、個々人に所属する物か。一人だけの専有で共通化されないものが次の主体になる可能性は?

とか、考えて、とかこの辺、まだ掘り下げる余地はあるな、ふふふ、だよん。地域通貨は頭のいい人が挫折した道で(高知には5〜700万規模のモリ券が流通しているらしいけど)私ごときの妄想ではあるけど、妄想って楽しくない?


私は中学高校、ほとんどラノベしか読んでいない。センター試験の国語はフィクションとノンフィクションだと思っていた。

一応センター国語の偏差値75だったけどそのレベル。

大学に入って、図書館で読んだ小室直樹の本に衝撃を受けた。

価値が相対化されない世界がある!というか、自分の頭で考えてもいいんだってことである。

自分で判断してもいい、新聞に書かれた論点じゃなくって、自分で問題を作ってもいい!(病気にならなかったら大学時代からブログをしていたかは微妙だったけど←インプットの時期)

私は正しいことがしたい(危ないのは分かってますって)。世界が深みを増すのは楽しい。

知識欲って呼ばれるやつかな、があって、ない人の気持ちが分からない。

だけど知識欲がない人がいてもいいように、知識欲のある私もいてもいいと思うんだが。

自分の思ったことを言えるのは大学教授じゃなきゃダメってこともないでしょう。

私は知識がしっかりしていないので妄想にすぎないけど、ああでもなく、こうでもなく考えるのは楽しい。

娯楽がテレビであってもいいのと同様に、中二病でもいいでしょ?

現実に影響がなくても、というところで、(私は岡田斗司夫的なものは狙ってないし)

最近、マイブームが、愚行権の行使って素晴らしい、で、自分の至らないのは恥ずかしいけど、妄想する楽しさがあって、ま、人に迷惑をかけなかった許されるよね、とかいろいろ。(変なことを書いた後は後ろめたさがあるので言い訳)



物語三昧の過去ログ(http://ameblo.jp/petronius/entry-10032710602.html)「西洋近代の自己同一性問題と物語を生きる人間について〜ロマンティシズム宣言 」を読みつつ、

そもそも自己とは何か?(いいかえると<私>とは何か?)


それは、体験と記憶の一貫性にある。これは、たぶん実感的にわかりやすい一つの結論です。(略)

けど、、、、さて、、、では、人間の継続性の実感というものは、実は、時間感覚を作り出す脳の恣意性にまつわる問題であったということがわかってきました。

とか、そう切り取ったのか。変わらない自分と変わる自分が私の論点であるのだが、自己は選べる、を論の主体に持ってくると???とか発酵中。