ガッチャマンクラウズはファシズムじゃね

愛と勝負については、本当の自分をキーワードにして、時間軸を設定すれば、上手く切り取れないか、な?

で、ガッチャマンクラウズ、うちでは放送されていなく、たまたまクリックしたところに感想があった。

集団作ってその中では居心地よくて、その他に対して排他的なのはファシズムじゃないか?

ってえらそーにいったけど、一件の感想サイトからの判断で元ネタは読んでから二カ月もたっていない

いま生きる階級論

いま生きる階級論

だが。

ボラード病

ボラード病

(面白いって)

クラウズの否定か、(とそれぐらいは知っている)。

皆個々の否定。

ペトロニウスさんが、再分配は限られた人でやるのがいいという結論になっていると書いていた。

私の前作の感想は、未来の思想は今現在の思想と違う。

ならば、現在の思想であまり評価されない(否定される)思想をくみ取る評価軸を持つことは可能なのか、(でないと、将来的に潰れるシステム)というのと、

いろんな価値観の人にとって欲しいものが報酬になるのならば、報酬はいろんな価値観に変換できるもの(お金的?)なものなのか、資本主義とは別の価値観になるのか、補完的なものなのか、というのであった。

(ってプールでブログ記事考えたときはオチまでたどり着いたのに、書けない〜)

これにhttp://d.hatena.ne.jp/jmiyaza/20150816/1439731745の視点を汲みこんだら

「自分は国家からも思想集団からも宗教集団からも縛られない個人でありたいが、一方で、人間の共同的なあり方は求めたい」というのは虫がよすぎないだろうか? これはあちらを立てるとこちらが立たないような二律背反に近い関係にあるのではないだろうか?

 「知識人的な個でない、ほんとうの生活民」というのも随分と観念的な言葉に思える。渡辺氏が抱えているという「魂の飢え」を「ほうとうの生活民」はみな感じているのだろうか?

おもしろそうかな、である。

私は前回の記事で、自由とは(民主主義とは)私の考え付かない素晴らしいことをあなたが考え付く自由ではなく、私が許せないことを考える自由、と書いた。

全ての価値がなんでもありなら集団はなりたたないので、アメリカなら国旗、フランスなら言語、ひとつ、これだけは共通認識じゃね、というのを決めて、あとは自由にする以外に、集団の成り立つ方法はあるのか考えている。

共通の一個の了解がない集団だから、かえって、全てが同じでないと共通認識が得られなくなっているのではないか。

日本の集団は目的がないのに成り立っている(共同体化?)、のならば、目的(あるいはそれに類するもの)で成り立つ集団とは?

で、集団の成り立つ条件か、とどの本読めばいいんだろ、である。

私は知識人か(なんか最近よく当たるキーワードなのである)。もけもけ考えるのは好きであるが、そんなえらそうなものなのかって、

レーニンは階級として〈インテリゲンチャ〉、つまり知識人階級というものを立てました。知識人とは何か?

自分がいる場所を客観的に認識し、それを言語で表すことができる人です。だから、本を読む人、というのとほぼ同じ意味ですね

レーニンは、資本化とか地主とか労働者とかに関係なく、階級横断的な別の階級としてインテリゲンチャが存在すると考えました。

いま生きる階級論

いま生きる階級論

この定義だと、ボーナス月でもないのに書籍費8万投入した私は知識人になるのかもだけど、橋本治が言う知識人定義とは違う気がする。

治やんは「貧乏が正しい」で自分は考える人、読者は実行する人と言っていたような、読者も考えないといけない、と言いだしたのなら、考えると知識人の定義のずれがどうなっているのか、原本当たってみっか

(と最後の一文でこれから書きたいことに収束させるために前文を書いたのだが、まとまってないな。なんか最近TB打ちまくりですいませんです、見ていたら)