変わっていく中で変わらないものが私といえるのか
なんで愛を考えていたら、勝負を連想したのか、反芻していたらわかった。
皆さん、自分がなぜそう考えたのかいつも分かっているのか、私は分からんぜ。
かつて愛した気持ちは変わったとして、ずっと変わらないものがあるのか。
ずっと変わらないものが私なのか。
宮台先生は極限状態が本当の姿だと言っていたような、私はそうは思わない。
自分がいかに卑しいか分からずに終える人生があったとして、その状態にならなければわからないのであれば、ただの妄想である。
光市の元未成年が母親の首吊り自殺の遺体を片付けたんだっけ?そんな極限を体験した人を体験していない人が批判するのもおかしいが、結果としては批判しないといけないんだろうけど。
元少年にとっては平穏な家庭が妄想だったと思う。自分が経験していないことをいくら考えたとしても妄想である。
(やば、議論がはじめに考えた方向とは違う方向に流れていっているぞ)
それはともかく、そんなことを考えていたら、環境込みで私は作られているのだろうと思う。
そもそもはなぜ私がすぐにパニックになるのか、天与の性格はあるか。
変わらないもの、変わるものがあって、変わらないものだけを自分とするのには無理がある。
選んでいないもの、与えられたものも自分の一部だろう。(←追記:ここの部分接続変ね、変わる環境で作られる自分は自分として確固としてある、かな?
勝負の結果変わる環境で変わるもの、変わらないもの、私としては環境ごときでそう変わるとも思えないけど、環境って重要視していて、なぜ熱くなるのか、いつか掘り下げるぞー)
と、すると(ってつながってないが)、過去の自分は今の自分からすると選べないものであるが、過去の選択は自分に帰属するのか。
生まれ変わった自分、しかし過去込みで自分を愛するとかぼそぼそ
と、そこまでは考えて、少し発酵させようと思うのだがって、
計算不可能性を設計する―ITアーキテクトの未来への挑戦 (That’s Japan)
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以前読んだ時に殆ど記憶に残らなくて、今回もどちらかと言うとあー自動読み飛ばし機能がONだぜーだったんだが、
今、自分が時代の中でどの位置にいるのか。かつての時代がどうで、これからはどう変化していくのか。
ペトロニウスさんがよく言っている問題で、以前読んだときは読み飛ばしていた部分が刺さった。
ここではないどこか(未来)を想像する力かーむにょむにょ。
専門書を読みたかったのだが、雑本にも未練があるなー