「当事者」の時代

「当事者」の時代 (光文社新書)

「当事者」の時代 (光文社新書)

いろいろと満載で、私には咀嚼しきれなかった。

山本七平で学んだこととは別口の当事者、被害者、加害者の歴史はものすごく勉強になった。

本棚の保存本にすることにして何度か読み返すようにしたい。

佐々木俊尚は怪しげな山師かと思っていたが、新聞記者としてのバックボーンは説得力があった


山本七平を読み返して比べたら、いい補助線になるのではないだろうかと思う。

「客観的中立報道を標榜している新聞社の記者」と書かれているように、

新聞記者が神の視点に立ちがちなことはすでに指摘があったような気がする。

山本七平はもう10年前に読んで内容を忘れている。2年前ぐらいから読みなおそうと思って私の中の日本軍を見えるところに置いてあったりもする)

目にしたことをそのまま書いても、記事になるわけではない。

そこにひとつの物語を仮定し、その物語を通じて読者に考えなり思いなりを伝える。

もしその仮定した物語を妥当性を持ち、説得力があれば、記事は読者に理解される。

でも物語に妥当性がなく独りよがりだったりすると、読者に思いは伝わらない。

絶対的傍観者が作る物語とは大きく異なっているのだ。

だが当事者である記者たちの取材には、そうした「創造」が入り込む余地は少ない。(略)

記者たちは<マイノリティ憑依>するのではなく、被害者と同じ視点、同じ立ち位置から無数の物語を背負い、その物語をお互いに共有している。

マイノリティ憑依とは、「被災者の前でそれが言えますか」とか問い詰めたり、勝手に被災者の気持ちを代弁してしまうことである。

ベトナム戦争ベトナムの人に感情移入して、その立場からアメリカを批判するのではなく、日本人が自分のやり方でアメリカのひどいやり方と戦うこと。

でも、この手の話は、「当事者」というより「関係」(橋本治の「89’」)の気もする。

被災者がこういう立場であって、それを私がどう思ったか、被災者の気持ちと同じでなくてもそれが私の考えだ。

確かに被災者と同じ経験をすれば同じ考えになるかもしれないが、同じ経験をしても違う感想を持つこともあり得る。

異なる考えの可能性を認めることは、被災者を認めると同時に、私の考えを認めてもらえると思うんだけどな。

(そういうとき、当事者でもないけど、どういう関係であるから言葉を発するのか、どういう関係を結ぼうとするのか、私にできることは何か、とまできたら、当事者になる?

アメリカをベトナムの立場から批判するのと同じか?←分かりやすいから引用するけど、マイノリティ憑依の例はほかにもあります

というか関係をどういう立場でとかスライドできるとしたら、ちょっと厄介か。)

佐々木さんは説得力を持たせる考えからか当事者にこだわるけど(強引にまとめました)、当事者にとっては一回こっきりの人生だから、日本全体の確立するからするとよくあることだったりはするけど、そういうの見えなくなっちゃうし、一概に当事者になろうというのは嫌だな。

当事者でないから記事に説得力がなくても、被災の様子を見て語るチープな言葉を発する人も、チープな言葉なりにその人の人生の裏付けがあっての言葉だから、説得力はなくてもその人の人生としてみた場合は真実になるのではないか。

佐々木さんはマイノリティ憑依と当事者との対比で考えているみたいなので、この批判は当たらないだろうけど。

で、ここで、ソーシャルメディアを持ってきて、第三者の立場でいることを許さず誰もが当事者化していくんだそうです。

なんとなく当事者と関係の関係でオチをつけれたらと思ったりもするのだが、また89’読み返してみよっと。