私は私になっていく 痴呆とダンスを

人間が人間として扱われる条件とは何か。

私としては例によって文脈から切り離して引用すると

つまり、狂人かどうかは、回りの集団が決めること。

 内在じゃないわけね。
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20080513/1210640254

という問題をさらに進めて、マトモな行動量とマトモでない行動量を比べれば、マトモな行動量が多いのに、あるいはたぶん病名がなければまともに扱われる外から見られる行動があるのに、マトモであるように努力する量は他の人より多いと思うなのに、一段低く見られる人の宙ぶらりんな気持ち。

いや、自らかミングアウトしなければ絶対ばれないスティグマ
(http://d.hatena.ne.jp/akizu/20090517/1242564124)

病気の進行段階によって私たちを分類しないでほしい。それは個人のレベルではまったく無意味なことだ。

私たちの大脳皮質はその人自身の学習と経験によって決定されるので、脳のどの部分が破壊された場合でも、人によって反応の仕方が違うのだ。

私たちはそれぞれ異なる能力を持った、一人の人間として扱われる必要がある。

私たちの欠陥ではなく、能力に注目してほしい。決して統計の対象としてではなく、私たちを人間として扱い、人生に参加させてほしい。

私たちが楽しんでやれることを続けられるように助けてほしい―自分が尊重され、感謝され、、まだ社会の一員であると感じさせてくれるものであればなんでもいい。

痴呆の人でもこれだけ書ける。すかすかの脳の状態はともかくこの人は痴呆でないと判断するのか。

痴呆でこれだけ書かれたら、痴呆の人を切断操作して自分と別物と考えるのではなく、自分と同じ人間という共感が生まれると思う。それが小さくて大事な一歩。

作者によって痴呆にも段階があることが分かった。しかし、共感を得るための条件は何か。これは後期痴呆にも適用させられる共感なのか。

自分なら絶対しないマトモじゃない行動をするしかない人を別のカテゴリーに入れずに共感することは可能なのか。無理といいきることに迷いを感じさせられる本だった。

共感はあるいは自分もそうなるかもという代替性を想像させることで生じる?じゃない気がする。代替性があってもああはなりたくないと思われるだけ。

それにしても、共感がなければ人間として扱われないのは当然だと思っているんだが、人間の友愛は共感しない人にも発揮されてほうがいいのか。出したり引っ込めたりすることを前提としたほうが良く回るシステムなのか。

…まとまらない。レッテルを張らずに人を見られる人はなかなかいない。そんなことを要求してもしょうがないが、偏見を打破したい気持ちが熱くて心地よい本。

私は私になっていく クリスティーン・ブライデン クリエイツかもがわ 2004