争いは関係性で緩和されるか

ロードス島戦記の4巻だったか、カシューとアシュラムがなぜ争うのか、アシュラムは理想が違うから(だったっかちょっと自信ない)、カシューは立場の違いと答えたんだったか。

大辞林、3番目で、立場とは、その人の置かれている、地位・境遇・条件などで4番目がものの見方、だったんだけど、自分としては3の感触だったんだよね。

その地位にあるから、何かをめぐってたまたま争うことになったからで、それが別の人だったら別の人と、あきらめてくれたんなら特に争うこともなし?

理由が先にあるんじゃなくて、争う状態にあるから、争うような?

なんとなく、LDさんの戦争状態も時がたつと、技術の発展で争う理由がなくなるっぽいのを思い出すって、出口さんもそんなこと言っていたっけな?

何が重要視されるのかって、その時の状態に規定される。

状態って何だろう?


欲望の発展説だったか?

安全の欲求とかの上に自己実現の欲求があるっぽいの。

食べ物を食べるために豊かになりたいというのは、たぶん万人共通の思いで、そのために回りと協力するのは想像がつきやすい。

でも、自己実現の形、というか、なにで自分がワクワクするかって、人それぞれというか、ワクワクの共通の形って難しいのか、趣味って何よって、テレビ番組好きなのは、ネトゲ好きなのはくくれるか、人によって内容が違うのかというか。

何に我慢できるのか?

あるいは、なんのために人と競争するのか、何を取り合って争うのか。

争うものは万人にいきわたらない貴重なものなのか。

押井守が価値観で番人納得するものはなくても、勝負は感情移入してくれるって言ってたっけな。

何が貴重かは同意されなくても、負けたくない思いには同調されやすいだろうか。

日韓どーなんでしょ?

あいつが嫌?あいつが好きで、好きはそれぞれで、嫌いが重要か。

好意を示すために損をするのは抵抗があるが、嫌いな人の足を引っ張るのは損を承知か。

嫌いな人が自分の二倍の現象が起こると天使に言われると自分の片目をつぶすのか。

実験だと、得をするのと比べて損をするのは2倍苦しいと考える(テケトー)と、

苦しさの我慢はしづらいか?

不幸の覚悟はしにくいのか。

不幸を想像さすのは、得をさせるのと比べて抵抗感を持たれる、不幸の我慢はなんでおぎなうのか?

人を不幸に指す快感は、自分の我慢の限界を超えやすいのか、

赤ん坊が殺されるのを止めたい正義感は、自分の損を見えなくさせるのかって矛盾はどうだ。

正義の感覚と人の不幸の蜜とどちらがより重いのか。

押井説だと、正義は同意されにくいか。


争う理由は、争うに足る欲しいものがあったからで、争うのに失われる資源と、争うことによって得られる利益と比べると、利益が多そうに思えたから。

それだけ欲しいものがあったから。

なぜ欲しいのか、理想の実現か、自分は欲しくなくても周りが困るからか。

自分が我慢して利益を与えて、次は相手が我慢して利益をくれる、関係が成り立つと争いはどうなるのか。

自分目線は2割ぐらい評価が甘い、納得できる線はないとして、少しの我慢も許せないとはどういうことか。

決定的に許せないこととは何か。

生存に関することは同意されやすく、プラスアルファは人それぞれ。

あの人のために協力してやろうとなる、ならない。

結局は人か?立場、周りの人間との関係、関係性が争いを規定してる、と言えるかなー

関係性が良ければ、負担が次に利益をもたらせると思えれば、我慢できるか、自分はベストを目指す国際関係になるのか、近江商人であるとはどういうことか?