争いと敬意と信頼と

なぜ争うのか?

中二病チックな疑問は、どこぞのアニメのせりふであったような。

欲しいものがあったから。

欲しい状態があったからで。

ただ欲しいものは数多あり、わざわざ争うに値するとはどういうことか。

貿易があり、買ってもらう仲だと、戦争にはなりにくいか。

防衛力がなければ、そいつを属国にしたほうが儲かるとなるか。

失うものと得られるものと。

まおゆうでは、戦争自体が商売になるとあったような。

または得られるかもしれないものが、失うとわかっているものより尊いか。

計算で成り立つのか。

イランの出稼ぎの人の映画(だったか?)は、侮辱で我慢できないことがある、でしたが。

生きることより重い価値観があるのなら、損得より重い価値のあるものがあるってことだろう。

今の日本は生きることを自由より重視するんでないかっポイ指摘もありましたが。

いやな役を引き受けて、みんなから嫌われてもなすべきことをなすのも、理解者がいないところでするのは、困ったお隣さんになるのか。

争いの原因がないということは、満たされているのか?

不満がないというか、うーん、当然あると思っているものがないとつらい。

自分の状態は、普通であると思えば不満もないか、それとも他との比較により満足するしかないものなのか。

不安のない状態はない。

不安に耐えるとはどういうことか。

損得での不安か、感情的な不満か。

テロリストのパラソルは金で人の心は買えるってお題でしたが。

(中二のころ読んで、いまだに筋を覚えているので名作だったんだろう)


若い子は批判自体を嫌がる風味であったような、

批判する意味が分からないというか、

現実に対して、現実を変える力がない行動は、軋轢を生むだけであればするのも必要がないというか面倒か。

相手を変える、それだけの面倒くさいことをする馬力がないか。

相手の興をそぐぐらいなら、仲良くするには黙ったほうがいいか。

相手は相手、自分は自分の原則を分かっていない相手だと、自分が批判の意図を持っているとすると興をそぐか。

相手を変えようと思っていないただの感想である、というか、シンカリオンというか、

ほの暗い永久から出でて 生と死を巡る対話

ほの暗い永久から出でて 生と死を巡る対話

今年のベストかなと思ったかというか、

人を人として扱うことが、どれだけの救いになるというか、

昨日気分が良かったのはなぜかと思ったら、自動車保険のおばちゃんに人扱いされたからか(涙)だったからというか。

侮辱の反対は敬意となるか、自由、相手の不興を買う自由とは何だろう?

自立した個であることは孤独であることで。

たまにある敬意のある中は貴重なのか。

というか、こないだ市民プールに行って、駐車場のおじいさんに久々にムカとするような余計な一言を言われたというか、

それでいうと、僕は余計な一言を貰うような経験はあまりしないんだけどなー(???)

敬意を持つということ、や信頼があるということは争いに対してどういう意味を持つのだろう?

ってそんなお題は大きすぎるので次は本の感想ですかな


(追記)

概念上の敵は殺せても、悩みもあり、長所もあり、欠点もある、同じ「人」なら殺しにくいか。

信頼の前提である、「知る」こととはどういうことか?