嫌われない距離は強制できない

秋津君、年収300万円で残業のない仕事にあこがれるといいつつ、ええ、いい作物があるんすよー

土地付き家が安く売ってたんですよー

しかし、今仕事が楽しいんやねんと、一歩踏み出せませんでした。

国会図書館司書も経営コンサルも、機会があったとき、仕事が楽しくて波に乗らなかったんだよねー

はあ、今の仕事、つぶれそうなとき、いいタイミングで異動があるし、でも好きだし、一生添い遂げろってことか、と10年超えて務めると、腹をいい加減くくれって話だろうかニャー

ふぅ。


極東ブログ

どぎまぎと別の言葉をつむいでみる。自分が法を介してであれ他者の死を支配できるような正義というもの認めることができない。自分を究極のところで、自ら義としてはいけない。

以前、オウム事件の死刑囚の執行は、天皇家の行事で忌まれるから延期されるだろうと書いたものの、どちらかといえば願望だった。日本が死刑廃止の国になってほしいという願望だった。この事件を凶悪な国民の敵による事件であるとするより、その凶悪さと悲惨を運命の果実として分かち合う経験の内側にとどめるべく死刑廃止に結びつけられたらと。

ぼかーピングドラムまじめに見てないねん。

ええ、生命の価値、読まずに人にあげちゃったんすが。

ベントさん、なんというか、開かれれているなーかなわないなー別の道かなーと思ったりもした。

えーと、

「ゲイがいてもいいけど、好かれたらキモい」発言にキレた話http://gendai.ismedia.jp/articles/-/56492

考えていたんす。

佐々木さんの本を読んで、おいら、知識好きだから、相手の欲していることでなくて、自分の話したいことを話す、少し親しくなると罠に引っ掛かりがちで反省したことであるよ。

気持ちいい距離っつーのは、相手の価値観を否定しない距離なんだよねー

そこに自分の価値観はとりあえずおいて。

相手を動かす強制力はないのは前提。

でも、自分の意見を相手にぶつけるか、それは相手に甘えていることになるっすかねー

と、結婚せいと言われるのに怒っていたアラフィフ先輩がいたんすが。

おいら、相手が自分を嫌うのと、相手が自分の気に食わない部分を指摘するのは別だと思うので、指摘は割と平気なんですが、嫌ってこられるとへこむけど。

相手の発言を封じるのか、僕の厚意を(?)を示さないのと、否定にかかるのとはまた距離があるんすよねー

自分の意見を優先して、僕を否定してきたのなら、僕の権力不足というやつを考えるので、嫌なもんは嫌だろうなというのもわかる。

顔色うかがわれたほうが、自分がうかがうより楽なのか。

前回の続きっすけど、自分が気に食わない部分があった相手だとしても、それでも協力するってどんな時っすかね。

協力し合わないと、自分が損を食らうときとは頭に浮かぶす。

分かち合う、と言えるのか。

自分の倍、相手がいい思いをするのなら、自分の目をつぶすという人間像が僕の原像かなー

相手が喜んでいると自分も嬉しいか。

子ども連れていると、結構、通りすがりの人も喜んだりはして。同じ日本人の子だからか?

トランプさんが選挙で勝つ前の5月に、アメリカの大多数が有色人種になったとき、それでも白人は多数の意見に従うのかっぽいのか違うようなことをブログに書いていたんすが。

同じ喜びを分かち合うのに、内部と外部を分けない。税金の使い道に偏りは出るとして、心穏やかにいられるのか

ベントさんのリベラリスト的な部分に賛同できるのかって、ベントさんは不利益被る覚悟もっているけど、大勢の人が受け入れられるものなのか。

自分が持っているはずだったものを相手に与えて、それでもこころゆたかになれるってどう言うことでしょうっすかね。

感謝がなくても、それでも何かを与えられるのか。その覚悟。

自分を義としないことをボーと考えているんすが、正しさがなくては不利益を被れない、苦しさを我慢できないとも思ったりする。

マブラブ、知らないっすけど、宇宙人が来て地球人は壊滅寸前なのに内部で割れるのか、そんなことにはならないという確信は、自分は持てるのかなー

現世利益を犠牲にするには来世のご利益か。大きな物語になるのか。

山本七平江戸幕府は権威と金となんだったけな、みんなすべてを持っていないというか、すべてを持ちすぎないことが長続きするのか。

6勝4敗を目指すばくち打ちっすか。

全て思い通りにならないことをどの程度の人が飲み込めるのか。

まだ一つ持っていたらまだしも、持てない、嫉妬とか。

ああ不条理って僕のテーマではある。

不条理を飲み込む、飲み込まないその状態の差ってなんで生まれるんだろう?


お、id:kaienさん復活しているー。嬉しっす。僕、ニコ動のアカウントもっていないんすよね。

でも結婚するって、恋とか、ドキドキするからするのでなくて、いっしょに暮らすトラブルが楽しいからというか、

小さく生まれて大きく育つ愛を自分は推奨するっつか、ま、いっか。何が起こる変わらないから楽しいっす(?)

それでも楽しいという確信ってなんで生まれるのか、ちょっと考えているっすが。

結婚という結果でなくて、生活、浮き沈みのある生活を共にするって過程が、なんといえばいいのか考えている。

浮き沈みがあったとしても、それでも相方は僕をすいてくれるという確信があれば、人生多少波風があったとしても心穏やかというか、

愛した人を信頼するのでなくて、信頼した人を愛せ(角川いつか)ってなんか深くね?というか、

自分の持ち出し多くね、と思ったとしても、ほどなく相方が子供の夜泣き多めに見てくれてすまん、みたいな、シーソーゲームというか。

(不得意分野をカバーしあえると思えるのか?)

いや、同期、それって奥さん本気で嫌がっているから、定年離婚だからって、言わないけど、ヤバいものを見てしまったのとどこが違うんだろ。



(追記)

口に出すってのと、嫌がらせをするの距離と、便宜供与ってのと、どういう関係なんだろ。

実際の利益/不利益って何なんだろ?

気遣われると、礼儀の差って?