生きがいについて(その4)
自己肯定は無根拠であるに越したことはないのです。根拠のある自己肯定は、根拠が失われれば消え去ってしまう。
では、無根拠な自己肯定を手に入れる方法は何か。それは無根拠に他者の生を肯定することそのものだと思います。他者を肯定した分だけ、自分も肯定していいという考え方です。少なくとも、自分の生を無根拠に肯定するよりは他者の生を無根拠に肯定するほうが簡単です。
誰だって、友人が「俺には生きる価値がない」と言っていれば「そんなことはないし、価値なんかなくたって生きていていい」と言いたくなるでしょう。それを「利用」するのです。https://toyokeizai.net/articles/-/223457?page=4
発達障害の僕が「うつの底」で体験した地獄BY借金玉
神谷美恵子の価値のない人を肯定するの、もっと別の根拠が欲しいなーと思っていたら、これは、障碍者差別をしていたら障碍者になったときつらい理論とは違うのかどうなのか。
前回のブログで言えば、自分なりの過程を楽しむの(自分なりの結果を楽しむでも別にいいけど、判断の基準を自分で持つの)、
根拠を自分で持つといってもいいのか?
ペトロニウスさんは手応えっぽく言っていたような、自分だけがわかる、自分だけの大切なもの?うん?違い?違いがあるとは?
それはともかく、
(積んでたの、1年半前かよ)フランクルの実存分析
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そのためには、心身のレベルで生じている苦悩と自分を一体化させるのではなく、苦悩から実りある形で距離をとり、対象化されたものとして苦悩を自らのうちで所有する(当事者研究ではしばしば「外在化」と呼ばれる)、実存分析的な責任と自由が要請される。
(注文しよ)
ここまでくるといろいろ線がごちゃごちゃだけど、借金玉さんに戻して、近しい他人の価値は××するから、ではない、と断言できるか、少しでも断言できる人はいるか。
人間の存在自体が尊いなら、人間とクジラの差はとか置いておいて、どこに線を引くのか、僕は人間もクジラも生きていても死んでいても大概に差がないニヒリストであーる。
でも、アメリカのドラマとかドキドキしすぎて受け付けない、みんな幸せならいいのに、と素朴に思う心はある。
まあ、人を数字で見ることもしなけばの職業であり、近しい人はいる。
私は誤解されてもしょうがない、勧善懲悪の世界に生きているとは思わないが、澄み切った空気に救いを見てしまう人だからな?
ええ、相方さんは曰く、僕は苦労していないからと、僕から見たら相方さんはなますに懲りて、であるんだけど。
人の善意を信じるわけではないが、どこかに信じるところがあって、それが私の尊厳となっている、かなー
今、日大を擁護したら、社会的に殺されるんすかねー
僕は自らを信じて非国民を自分で選べるかなーとはありますが。
ひとをまったくよきものと思えば、悪いことがあったときに、悪い見方にこけるけど、いいことも悪いこともある、いいこともあるし、と思っておけば、多少の悪いことにもめげないのか、
バットマンで黒人の人がスイッチを船の外に投げたの忘れられないんす。
犯罪者だったとして、私から見たら悪いことをするのも、良いことをするのも一人の人間の中にある。
悪い一方は思い込みで、かなー
ぼかー完全な悪意に会ったことがないのか、悪意はあるとは思う。
そんな時に良心には期待しないとは思う。
でも僕から見たら悪意でも、カンダダ?の蜘蛛ではないが、全くの悪意だけの人間が、あるいは、本人は悪をなしたつもりでも、塞翁が馬で人の役に立ったことがない、というのはなかろーと。
自分の見てきたこと、自分のジャッジをすべてだと思わない。
何かを断言することがあるとすれば、私は真理を求めるが、真理はないこと、かなー
自分が無知であることは、自分の知らない善意の存在を根拠なくどこかで信じている。
信じているので、生きる価値はあるだろうか?
善意がなければ、とない、と断言する人もいないんだよねー無知で。それが尊厳かなー
実存分析風にだと、自分に悪いことが起こっても、自分のせいじゃないしなー
この状況をどう動かすにしか関心がない。
ユダヤの収容所は、永遠に続くと思われたのか。
与えられた環境の中でどう生きるかにしか関心がないといえばかっこいいけど。
学習的無気力なんてことばもあるんだが、様々なことを試して状況が動かなかったためしがないというか、
あるいはまだ時期じゃないので虎視眈々というか。
希望って言葉は大学時代のおいらのテーマだったんすが、また辞書の中で意味をどうつけるか課題に挙がってきた感じかなー
今スピリットサークルが足元転がっているけど、大病患ったら、今と違う自分が身近になって、違う可能性の中に自分の半身を置いている感じです。
今の苦境がすべてだと思わないというか、なんちゃって感があるというか(仕事でトラブって体重減るけど)
逆にほかの人がこのブログ的な話題、どう処理しているのか、気になるところでやんすが。