予期と期待と未知と、過程を楽しむ
日垣隆が恋の始まりには相手の予想外のことをすることを書いていたような、
友人が恋人に一つ幻滅すると全てが気にくわなくなるような、と、
何を期待するのかと言うこととか。
ぼかー「あんなことする人には見えなかったのに」と言う言葉をずっと考えている。
ああいう人と言う決めつけをするのは怖いと思う。
人は何をするか分からない。
一方で、予想外のことをしたとき、その人を今までのカテゴリーから他のカテゴリーにうつす怖さと言うか、おら、逢魔ヶ時?の存在、というかふとしたときに魔がさすというか、人間の弱さみたいなのもあると思っている。
中一のときに東京バビロンを読んで、「事実と真実は違う」?とありましたが、どうなんだろ?
おいらが突然泣き出すの、単にドライアイ(だと思っている)で、涙が出てくるんですが、滅多に会わない近所の人と話していて突然泣き出すの(ばつが悪い)、絶対理由は当たらないと思うんだよね。
そういう、人が××するのの決め付は絶対、本当の理由は分からないというか、欺瞞と言うか、本人にもわからないだろうというか。
で、そういう決めつけって、他人は面倒くさくて、中々訂正もしないだろうし、決め付けする人の中では偏った世界観が強化されるというか、疑問の種も芽生えにくい。
世界観に対する決めつけって、他人が××してくれるという期待を当然の前提とし、してくれないと裏切られた気分になるのって、
してくれたらラッキーで温かい気持ちになるのに比べて、殺伐としているというか、相手に対する感謝の念が浮かびにくいようなっつーか(あれ、強引すぎる接続)、
未知と予期の話になったようなならないような。
予期が外れることに一喜一憂するコミットがあると、楽しいよね。
上手くいくといいなと言う期待はワクワクする。
外れたらがっかりするかと言うか、外れて当然と言う予防線の話もしたけど。
予期ってのは期待と見るべきか、確率を考える判断と言うべきか。
判断ってのは、私が生きてきた経験のなかでの私自身の人生そのものであり、否定されたら悲しいものでもあるか。
確率は確率か。私情の入る余地のないものか。
でも、生きるのに期待と言うか希望がない人生って、いや、ありふれてはいるんだろうけど、つらいだろうと思う。
期待しないことを常態としても、でも秋津君は尊重されていると思うので、期待しないことが可能で、
尊重されていない状態では、叶えられない希望にすがると思うのよね。
自身が満足する状態にあったら、希望もしないので、何か起こると感謝が生まれ、
不満足なら、ちょっと良くてももっともっと、となるか???どうなんだろ?
もっともっとと思う気持ちは向上心で。
期待せずに頑張ることって何だろうって、過程を楽しむことか。
過程を楽しむって何だろう。
結果が伴わなきゃ、会社的には意味がない。
社会的には意味がない一方で、動機づけの点で結果と過程と、裏切られる結果に期待するとはどういうことだろう。
結果を出す、皆が認める結果を体現する生き方と、自分だけしか価値のない過程と。
期待しないというのは、結果を期待しないこと、過程を楽しむということであるであるんだろうか?
自分だけが期待できる過程、期待する人間関係、温かい人間関係と思っていれば、結果を期待せずに、過程を楽しむことができるのか。
勝手な(温かいと思っている)思い込みが維持されると、多少の冷たいことも例外扱いになり、
冷たいことが常態と思っていれば、多少の温かいことは例外扱いになる。
思い込みを維持する、最初が大事っすかね?
(追記)
そこで、一人の人にちょっと冷たくされたかと思っても、他で尊厳を維持できていれば、ダメージ最小限と言うか、冷たくされた人に対しても次こっちが温かく出れるので、その人が次も冷たくしようとする気持ちをそぐというかのタコ足関係っぽいことは、いつぞや書いたと思うんですが、
どういう世界観で生きるか、は選ぶことができる、が私のモットーであるが。
仲良くなる過程を楽しむこと、将来仲良くなることを前提とすること、は前に書いていた、理想に住むってことは、世界観を選ぶってことであったのか。