選択と尊厳って関係している?

借金を受け入れたら、借金した人に恨まれるようになるとか、ツイッターで見たりした。

とか、施しの何があかんのかというか、

僕らの社会主義 (ちくま新書 1265)

僕らの社会主義 (ちくま新書 1265)

で、年収30万だったけど、人からおごってもらって食事するために、人に話を聞きたいと思わせるような話し方を心掛けたといわれると、悲壮感がないような、

選択したって思うのは思ったより重いかも。

ラグビーでないけど、生権与奪を握られていると思えば、相手に合わせるだけで、とか。


親戚に元社長のオジーちゃんがいまして、従業員の面倒をよく見て、飲みに連れて行ったり、家にも泊まらせて小遣いやったりということもしていたようだが、今となっては誰も訪ねてこないっぽいの。

自分の好意としてする、自分の生き方の指針として相手に恵むといった場合、相手ももらってはおくが、社長が勝手にしていることとも思いそうな、

としたときに、自分が××したからの褒賞としたほうが、納得度合い?が高いだろうか?

自分の行動の結果としての罰や褒賞として、自分がどうであれの結果はまあ運命っすというか、尊厳に結びつくのか?

自分の選択の結果は自分のもので、それ以外の運命は棚からぼた餅というか、身に沁みないか?

と重要なのは、こうしたらああなるといった予見のほうかなー

そこからの外れをどう解釈するのか。

自分に帰属させる結果は自分の選択は、自分のものっすというほかの言い方を探しているんすが、

尊厳ってどうやって得るものなんだろう?

予期から外れたことをどう解釈して、予期するってことはどんなことなんだろう?

ぼかーやってみなくちゃ分からない派だけど、兄弟は外のルールのひっくり返しはとてもじゃないが考えられないみたいだ。

僕の世界は何でも起きる。ので、結果はわからないので、自分の好きなように生きるっつーのが指針っす。

人に合わせようと思っても合わしきれないしなー気が合えばラッキーな中で、たまたまのご縁を大事にしましょの短期的視点っす。

行動と結果は別で、結果は結果で重要視しないので、責任の概念がわかりにくいんすが、自分の無力さは思い知らされております。でも、もしかしたらでやる。


棚からぼた餅の運命の中で人は添え物っす。

あるいは、新入社員の頃の恩は自分はまた後輩に返そうっぽくもあり、人の感覚が薄いんだろうか。

この人の特別感は、相方さんで育んでいるところとはいえ、ちょっぴし薄いっす。

人に名前がない風味な、特別感がないっす。

選択しないってことはこのまま(悪くなる)ってことで、行動して予期しないことが起こるのは楽しい。


そこに私の主体、意志はある、かな。

選択しないってのは、従うってことで、私の価値観がないってことではないかとこないだ書いて、

私の価値観と関係ないことで左右されることに尊厳はあるのか。

人権天賦ではあるけど、あたえられたものの中からでないことは、私の意志がないってことになるのか、(循環している)


予期と価値観の関係は、かなー

人生確率で考えるとはどんなことなんだろう。

ちょっと課題で考えます。