選択と尊厳って関係している?
借金を受け入れたら、借金した人に恨まれるようになるとか、ツイッターで見たりした。
とか、施しの何があかんのかというか、
- 作者: 國分功一郎,山崎亮
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2017/07/05
- メディア: 新書
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選択したって思うのは思ったより重いかも。
ラグビーでないけど、生権与奪を握られていると思えば、相手に合わせるだけで、とか。
親戚に元社長のオジーちゃんがいまして、従業員の面倒をよく見て、飲みに連れて行ったり、家にも泊まらせて小遣いやったりということもしていたようだが、今となっては誰も訪ねてこないっぽいの。
自分の好意としてする、自分の生き方の指針として相手に恵むといった場合、相手ももらってはおくが、社長が勝手にしていることとも思いそうな、
としたときに、自分が××したからの褒賞としたほうが、納得度合い?が高いだろうか?
自分の行動の結果としての罰や褒賞として、自分がどうであれの結果はまあ運命っすというか、尊厳に結びつくのか?
自分の選択の結果は自分のもので、それ以外の運命は棚からぼた餅というか、身に沁みないか?
と重要なのは、こうしたらああなるといった予見のほうかなー
そこからの外れをどう解釈するのか。
自分に帰属させる結果は自分の選択は、自分のものっすというほかの言い方を探しているんすが、
尊厳ってどうやって得るものなんだろう?
予期から外れたことをどう解釈して、予期するってことはどんなことなんだろう?
ぼかーやってみなくちゃ分からない派だけど、兄弟は外のルールのひっくり返しはとてもじゃないが考えられないみたいだ。
僕の世界は何でも起きる。ので、結果はわからないので、自分の好きなように生きるっつーのが指針っす。
人に合わせようと思っても合わしきれないしなー気が合えばラッキーな中で、たまたまのご縁を大事にしましょの短期的視点っす。
行動と結果は別で、結果は結果で重要視しないので、責任の概念がわかりにくいんすが、自分の無力さは思い知らされております。でも、もしかしたらでやる。
棚からぼた餅の運命の中で人は添え物っす。
あるいは、新入社員の頃の恩は自分はまた後輩に返そうっぽくもあり、人の感覚が薄いんだろうか。
この人の特別感は、相方さんで育んでいるところとはいえ、ちょっぴし薄いっす。
人に名前がない風味な、特別感がないっす。
選択しないってことはこのまま(悪くなる)ってことで、行動して予期しないことが起こるのは楽しい。
そこに私の主体、意志はある、かな。
選択しないってのは、従うってことで、私の価値観がないってことではないかとこないだ書いて、
私の価値観と関係ないことで左右されることに尊厳はあるのか。
人権天賦ではあるけど、あたえられたものの中からでないことは、私の意志がないってことになるのか、(循環している)
予期と価値観の関係は、かなー
人生確率で考えるとはどんなことなんだろう。
ちょっと課題で考えます。