自分教、役に立たないこと、赦すこと
橋本治が自分教って揶揄したのが気になっている。
いや、自分も実存主義っぽいし、と、佐藤優が実存主義は(神による)突っ込みもないっぽく書いていたような。
自分を信じることか、自分の正義を疑わないことか。
人生と引き換えにしても良いものを持てるのは幸いか災いか。
私は凡人であるので持てなかった、なあなあである。
人より大切なものがある。
いまいち輪郭がはっきりとしないサイコパス像。しかし、曖昧でありながらも彼らの対話をなぞりつつ読みすすめると、サイコパスは総じて「欠落して」いると結論付けられてあった。そこが「境界性」との違いだと。
自分のうちに絶対に譲れないルールを持ち、それを貫くためなら「他人と協調しなくてもいい」ということが前提となっているから、理解されることを求めない。なるほど、譲れないルールを持つがゆえに、捨てた何か。それは、捨ててはいけないはずの倫理観とかだろうか。
発達障害、サイコパスとのつきあい方を学ぶ https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180505-00052992-jbpressz-life&p=3
子飼さんがB級収容所だったか、人を二人殺した人の本で、言ったことを守らなかったので人を殺したと書いていた本の感想を書いていたことを思い出した。
大切なものを守るために,復讐のために人を殺すことは理解されるだろうか?
大切なものが人に理解されやすいか否か。
いや、僕は自分の価値観も人の価値観も両方大事派で、人と共存できる範囲での自分の価値観(僕の限界)でもあり、理解されなくとも追及されるものであるか、
生きていくためには人との関わりが必要で、そこを侵さない範囲でと言えるか。
自分の人生と引き換えにできるものを持たなかった。
でも、こそこそブログを書く、大きな犠牲は伴わないが、役に立たないことをする自由はある。
役に立たないことと人に迷惑をかけることの差。
人と付き合うことはその人が許すこと、許さないことを、その人がほかの人とは違って許さないことに触れることによって学んで、それはその人がほかの人とは違って喜ぶことを学んでいくことでえ、距離を縮めていくことだと思っている。
入れ替え可能なのはコストがかからないことだからか。
コストをかけていたら、回収期間を含め、特別になるか。
いや、母性のディストピアも考えているのである最近。
自分を全く受け入れられるのを夢見るのか。
僕は気味が悪いと思うんすけどね。
何かを提供するので受け入れられる。
出口治明さんが会社は合理的に動く場所と書いていたような、
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サダさんは、会社を退職しても終わらない繋がりを作っていると書いたような、
人は合理的に動くことができない、感情を排除できない。
日本人は会社を共同体にしたがるのは、ほかに共同体を持たないからか。
人を受け入れるのは、心地よいからか。
悪と全体主義―ハンナ・アーレントから考える (NHK出版新書 549)
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なんか書き方が甘いと思った。
アーレントが複数性にこだわっていたのは、それが全体主義の急所だからです。複数性が担保されている状況では、全体主義はうまく機能しません。だからこそ、全体主義は絶対的な「悪設定することでっ複数性を破壊し、「考える」という営みを奪うのです。
私と利害が合わない相手に、ほかに協力することと交換に賛成してもらうっぽい政治というか、
民主主義は私の考えつかなかった素晴らしい意見を言うことを保証する制度ではなくて、私が気に食わないことを言うのを保証する制度で、
その気に食わなさのことを言わないのはフェアではないようなって
そこに他者の存在、複数の目がなければ、自分では考えているつもりでも、数学の問題を解くように処理しているに過ぎないと指摘しています。(略)
そういう意味で言うと、私たちが普段「考えている」と思っていることのほとんどは「思想」ではなく、機械的処理。
無思想性に陥っているのは、アイヒマンだけではないのです。
機械的に法に従うことが罪になる場合があるのか。
私はいつの時代でも正しい思想に帰依したいが、今の時代の悪が100年後正しく、500年後誤りである想像ができれば、いつの時代でも正しいものを設定するのは無理だと思った。
自分の限界を見据えたうえで、正しさを主張する、私なりの正義は100年後正しいあなたの意見をつぶさないように、放置する、距離が持てるのは幸い、話し合うこと、が理想なのだろうか。
話し合うメリットを相手に提示できるのか?
他人を配慮しないのはサイコパスというと差別的であるか、やっぱり、その限界はありうるのか、自分が誤っている前提に立たないこと、はなかなか難しく、
極端にならない、常に例外がありうることを知ること。
神なしで、自分の正義を疑いつつ、自分の正義を信じるのは難しいか。
妥協することを望ましいと感じる感覚は広まらないか?
極端に走らないこと、なあなあにすること、人間であることは赦すことであるんだろうかの神の技であった。