取り返しのつかないこと

恩師が亡くなった。

結婚した時、子供が生まれたとき、CDをくれたりして、在学中はいろいろと迷惑もかけたし、年賀状で近況を知らせる仲でもあった。

で、知ったのが先週でしばらくそのことを知らなかった。

私は替えのない関係が分からない気味で、ニヒリストであるんだろうか。

絶対はないと思っている。

たぶんその人でなかったらそういう親切にもしていただけなかったんだろうが。

過ぎていくものに対する微妙な感覚は、「取り返しがつかない」というコラムに静かに深く描き出されている。高校の同級生の名簿のなかで友だちの死を発見する。

 Sの死が取り返しがつかなことは、どうしようにも逆らえないことである。しかし、僕が取り返しようがないと感じたのは、そのことではない。それは、Sが当然どこかで生きていることを前提として、僕自身が生きて来たことである。別の言い方をすれば、僕がそのSの存在があるものとした”バランス”で生きていたのだ。知らずに過ごしてきてしまった長い時間こそ、僕にとって、もうひとつの取り返しのつかないことであった。

http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2009/10/post-9b33.html

どことなく心の中でずっと飼っていた文章である。

気になって、この

毎月新聞 (中公文庫)

毎月新聞 (中公文庫)

も買ったが、私なりに心の一冊とはならなかった。(私の感受性がなかったというだけで本がダメというわけではない)

(と、子供が静かだと思ったら、コーヒーの粉ぶちまけてる)

うーん、私は取り返しのつかないことはない、なんだってありうる世界に住んでいるので、ぴんと来ない。

何となくわかるけど、自分の偽善者ぶりのような???

私は精神の基調が、自分がクズだからなー

悼んでやれていなかったこと、相手を生きていると、悲しみではなく温かい感情を持っていたこと。

その取り返しのつかなさ。


高校の弁当友達が卒業ほどなく亡くなっていて、年に数回は思い出している。

個性的な子だったが、もし生きていたら、いったいどこに落ち着いたのだろう。

好きだったアイドルのCD出るたび、墓に供えたくも、住所も知らず。

てか、隣県にあることは知っていて、ちょいハードルが高いというか。


父が難病で、いまだひどくはないのでその死の実感はないが、その5年後。

生まれてからずっと同じ人が家族でって、祖父母がいなくなったのは実感がないのか、父母がいない世界があまり想像できない。

死ぬことが唯一の取り返しのつかないことだとは思っているけるけど、喜怒哀楽、共にしてきた人がいなくなること。

こんなことがあって、あの人、こんな顔をするんでないかと思っていた人がいなくなること。

自分は冷たい人間であるんだろうか。自己中かな。

思えば転勤族で故郷がないこと。基本、人は通り過ぎるものであること。

人に迷惑をかけられた思い出もなく、執着がないこと。

恐れて同郷人の同調圧力に負けてしまうこともなく、その濃密さもなく。

よく言えば個人である?

人は人、思う通りにはなってくれない、自分で自足すべし。

って、町内会の会に出たのだが、仕事引き受けたくも一瞬思ったが、乳児のことがあるしなー

てか、父が嫌がるのは、なぜなんだろう。多少の面倒はおもろいと思うが、多少で済まなくなるのだろうか。

世間はせちがないか。

与えるものがあるものは幸いであることよがモットーっす。

寄付して偽善者となじられる。偽善者、結構でなかとですか。

人生90年時代で、ライフシフトというか、退職後というか、40から退職後を見据えてのドラッカーか。

人とどういう関係を築いていきたいのか、早期退職して農業する人の送別会にも行って、休日考えています。


(追記)

恩師には線香あげに行こうかなーしかし生徒が生徒、みんな家にお邪魔したら迷惑だよなー

と逡巡していたら、乾仏具店が献米とかって、母には魚沼かよ、うちの県のじゃないのかよって突っ込まれたけど