馬鹿として生きる
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20180422/p1
暴力ではなく、耐えることによって共感を生み、世界を変えていく戦略
いや、ペトロニウスさんが暴力も認めるべきか、暴力か共感かの問題設定から、両輪というっぽくまでになられまして、目から鱗っした。
前回の僕の設定は、納得することは人生においてどれだけ大事か、ですかな。
悲劇は訪れる。選ぶことはできない。
自ら悲劇を選ぶとはどういうことか。それを納得するとはどういうことか。
自分のしてきた決断が、自分の人生を作っていく。あまりに当たり前な話。自分で決断しない人に、自分の人生はない。
BY ちきりん
ってそんな簡単なことだったのか、と思ったりした。
悲劇を自ら受け入れるって、その意味を求めるってことで、僕はあんまーりしたくない生き方です。
というか、絶対に替えの利かないものの、想像がつかない貧しい僕ちんなのだが。
世間が僕の意を通さないとき、反発する(暴力)のか、耐えるのか。
僕は(したことがないにしろ)耐えて共感を求めたい?
というか、そもそも暴力いうほど激しい性格していないし、生まれる場所を選びたかったの朝の散歩で慰めを得たいっつか。
自分の意志で軋轢を選ぶことの重さがわからない。
誰かがしなくてはいけない。でも自分でなくてよい。でも自分にできることがあって、家族にも迷惑がかかるかもしれない。
まあ、損得ばかりで動く人生もつまらないか?
欲しいものがあるって素晴らしいことだと思う。
他人の価値観、損得ではなく、自分の価値観、自分の欲しいものを選択するってのが自分の人生を生きるってことっすかね。
自分で選んだことに納得することというか、自分で選んだら、後悔も自分のもの?馬鹿な人。
私の役割、あなたの役割、今日も持ち場で頑張るとなるか。ポエムっした。
社会人であるということは、そういう理不尽な状況に追い込まれても、社会人として生きなければならないことがあるのです。(略)
「公」にとって正しいとされていることが、実際には「公」にとって明確に間違いであると確信できたとき、社会人はどうすべきでしょうか。必死に「公」に向かって声を上げ、説得をしなければなりません。いや、それを義務と思うべきかどうかもむずかしいところです。でも、こうした状況が、語り尽くされた「正義」を超えて社会人と「公」の関係の本質をあぶり出します。あなたがそうした場所に立たされることがあるかもしれません。
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2012/03/4-92f8.html
鳥も鳴かずば撃たれまい。触らぬ神に祟りなし。しかしなー