些事と人生を賭けるに足るもの

ツァラツゥストラ、第一部は読んで、たるい、、、

ツァラツゥストラが何を語るに弟子をとったかって、自分の価値観を持つこと、だったのか。

ってそれは現代人の前提なので。

永劫回帰にたどり着くまで頑張ります♪


で、たどり着くまでに自分なりに書いておこうと思ったんす。

何かに憧れて、ふつうの人生を放り投げて、狂わせた誰かや何かを追っかけて生きること。

https://cakes.mu/posts/17490

確かに、その経験の引き換えに人生をささげるってのは、狂うって言えることかもだよねー

山本七平小林秀雄について書いた本で、天才ってのは人生を選べなかった人だと書いていたような、

僕は、それと引き換えに死んでもいいことはない凡人です。

でも、ちゃんと(?)不快なことも嬉しいこともあります。

自分なりに嬉しいこと、悲しいことがあります。

僕は大学時代に大病を患い、ベントさんの本で障碍者手帳をとるかもってことを考えて、しかしそこで潔く章が変わる、その行間の重みがわかります。

(人のことなので、わかるわからないで言えばわかるに傾くだけかもしれないけど)

大病の経験は僕を変えました。

大病を患わなかった僕は一体全体、どんな僕だったのか、しかし人間いつかは不条理に当たる、やっぱり僕だったのか妄想の産物です。

自分が変わった大きな経験というのがあり、しかし日常は日常で、子供が今日はご飯をパクパク食べてくれたとか(偏食入った子なのです)、仕事で社長に出す(全国に公表する)資料のミスを発見して、お手柄と言われたことがうれしかったりもします。

些事です。

これがなかったら僕は違う僕だったというのはない。

でも1の嬉しさが10集まったら上機嫌になり、毎日上機嫌と、不機嫌では、振り返ると人生の在り方が別になるような気もする。

引き換えに人生を要求するものは1万の楽しさと、1万の不愉快の交換のような気もした?

まあ、っ些事って、選択しようがあったのではないかという割り切りができなそうなので、いまいち胸張って、これで悪いかと言いづらそうなのは認めるってーか、

いま子供、うんこパジャマに、はみ出てるよ、今日は雨なのにシーツ乾くのか?って些事だけど刺激ですねー

ユウタロスさんの、死ぬ前に見る夢っぽいの、ブクマして1年に一回見返してみたい気もしたhttp://d.hatena.ne.jp/grand_bishop/20150402/1427945550(最近ちょっとブログ復活されてますね)

人生を繰り返すに足るものと、自分が死んだ後のことも責任を持って考えることと、どういう関係にあるのか?

ポイントは責任を持つってどういうことになるのかなー

人生を選択した、決めたと思えば、自分で人生の責任を持っていないとやらされ感で生きた気がしないのか。