人間の価値ではなくて人生の価値
前々回、知識ネタの時に下書きを3行書いていたんすけど、前回すっかり忘れていたので、メモっとくと、
正しいことが分からないなら、積極的に反対意見の理屈を学ぶことかな?
王道理屈と反対理屈を突き合わせて地図をかけることが理想っすが、そうそう教科書の如く整理されていないだろうし、学ぶ時間がないんすけど。
食わず嫌いはまずい。正しさを疑うことが教養っぽい感じになってしまったかな。
疑うことと人を真似ることのバランス、人によって信じやすさとか違うだろうから、「成功」する出し抜きのための自分なりにどれぐらい傾いたほうがいいのかって一生追いかけネタっすねー
世界が始めから無意味である、というか、自分が世界に対して意味のあることをできない、自分が無意味っぽくも感じているようないないような僕ちんす。
まあ期待値低いから、朝の挨拶をする人がいるだけで幸せになれて、ま、いっかなんすけど。
最近プリキュアの感想見て感動したのが、楽しいことを探していた(与えられる楽しさ)だった(プリ)キュアマカロンが、自分で楽しむ目標を設定していったことっすかな?
「されど」のせっちゃんと同じかな(違うかな)。
楽しいことが分からないと言われたらつらいところなんすがって、
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を読んでいたら、
どこかに行ってお金を使って楽しませてもらうだけでなく、自分たちで楽しみを生み出す力を高めていくことが大事だと思うのです
当のモリスは「お金が無ければ買えない製品をモリス商会で販売している」と批判されましたが、「製品」ではなく「活動」であればお金が無くても楽しむことができる可能性が高いような気がしています
ところが、楽しさの定義っていうのは,全くと言っていいほどないんです。快楽主義の哲学というのはありましたけど、では快楽とは哲学的には何かということが突き詰められていない。
だから現在に至るまで、楽しさというのはほとんど論じられていないに等しいんです。
そうではなく自分たち自身が試行錯誤を重ね、持続的に挑戦していくプロセスの中にこそ楽しさがあるのではないか。
自分でマネジメント(ハンドリング)している割合が多くなれば、楽しさも増してきますからね。ラスキンが分業を嫌ったというのも、これと通じる話ですね。
世界に対する私の価値は無であっても、私の人生を楽しむ、人生としての価値はあるんだなっぽくも思ったのでって、昨日パソコンと仲良くしすぎて、相方が不機嫌なので今日はこの辺で♪
ベントさん曰く、幸せであることが人生ではなく、感情を堪能することだ(とは言っていないけど)、虚無にむしばまれるより、試行錯誤を楽しむあり方の方が楽しいかな。