精神一到は信じんすけど、やる前から諦めたくはなし
意思についてボーと考えている。
現状に満足しない、現状と違うことを目指すのが意思だとする。
ここではないどこか、になることを夢見る。
ここではないどこか、の知識を持っていなければいけない。
ここではないどこか、がありうることを知っていなければならない。
子どもが水頭症かもしれないときにふと思い出す雌鹿は、現実ではないここではないどこかである。
現実ではない場所がある、現在の可能性がすべてではない。
と、この理屈でないような気もする雌鹿でした。
なお、美しい世界がありうる支え、美とは何かというのに突っ込んでいくと、持ち言葉がないです♪
自我関与(Ego involvement)は、「自分に価値があると感じられるかどうかが、特定の結果に依存しているプロセスのことを指す。」 そして「自我関与は、他者から随伴的に評価されるときに発達するもので、それは価値や規範の取り入れ密接な関係にある」具体的には、「自我関与をしていると、自分が他者にどう見られているかが焦点になる。」これは、現代の承認の問題と重なるだろう。
本書は内的な恐怖を受け入れる必要も述べている。自己破壊的な行動をやめるには、自分に能力がないこと、愛する人から捨てられること、死ぬべき運命であること、「それが何であれ、不健康な行動の源泉となっている感情を経験する覚悟ができなければならない」としている。こう言ってもいい。泣いてもいいし、怖がってもいい。その嫌な感情の経験を避けようだけはしてはいけない。
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2018/01/l-c860.html
をジーと考えているんス。
僕も腐れ実存主義者だから、というか李之助の生き方だよな。
と、「されど、われらが日々ー」のcakes書評を読み返していて、世界が初めから無意味である、私にとって、それでも生きたということ、が答えになるのかもじっと考えている。
純粋性と生の問題だそうで、与那原さんの本をブックマークもしたりしたが、それでも生きる、実存主義的にというのが答えになるのか。
僕の人生は僕にとって意味があるが、というか、何物にもなれない性にはあんまり拘らない。
自分がそんなに特殊か、そんなわけないっしょ。でもパンピーとして立派に?世の片隅に住むことに対して、異議が唱えられたら、それには反発しようと思う自尊心はある。
というわけで、自分が自分であるアイデンティティは何なのかじっと考えていたりもする。
世の中に対して無害なことです(?)悪意がないこと、かなー悪意を持たずに過ごせる有り難さよ。自分の価値っす?
と、「されど」の答えとして外れるような気がするんすよね、というのと、ここではないどこか、につながらないのか。
こんな心根の優しい僕ちんが虐げられる世の中は間違っている、となるかなー
ウヨってないのは偶然かなー
と、「プラネテス」で家に火をかけられた人のことを思う。
僕ちんの在り方と、僕ちんが世間からどういう扱いを受けるかは全く別の問題であることはわかる。
植物になりたいと願ったことはない。僕に対して世間が甘い(これまでは)。
僕が受ける苦痛は僕だけのものか、と開き直れるか。
ひっくり返しが無理なものは受け入れるしかない苦しみはある。
受けいられなくてのた打ち回るのも人生だとは、(苦しんだことがないから頭では)分かる。
(って大学受験に失敗しているので、病気で休学したのも平気っしたが)
いや、ここではないどこかを実現させる努力は、失敗して当然だし、一歩一歩目の前の失敗成功に心を動かさずにやることやっていくだけのようなとつなげたかったんすが。
でもそれだと、感情無視になってしまうかな、一喜一憂しつつ結果に心を動かさない状態はあるかと考えているっす。
無理目だから、続けることのできる労力だけを割くのが僕の理想なんすが。
為せばなるとは信じないけど、ここまでやって無理だったから諦めがつく点までは努力したい。
細く長く諦めない、強い輝きのここではないどこか、ここではないどこかが実現することに臨在感があるとは?
と着地点はこれぐらいを目指して、最近もちょもちょしているんス。