ハッピーエンドに殺されない
ここではないどこか、を夢見る、というか。
今の環境ではない、ここではないどこかへ近づこうとする意志っつーか、
今の環境を維持するにも落とし穴(ここではないどこか)はあって、
現況の比較をもっていること、というか、
当たり前であると思うことは、何らかの陥穽があるような、
感謝の念がなくなるというか、足るを知るから遠ざかるような、ということをボーと考えている。
鹿の続きなんすが、ここではないどこか、に臨在感を感じないとというか、うーん、ちょっと置いとく。
当事者意識というか疑似体験というか、歴史と経験ですな。
テッドさんが、無知は付け込まれて、騙されて不幸になるっぽくもありましたが。
知ることを怠ることは老人になるということ、か、老人って今までの人生を乗り切ってきた経験で、自分の生き方で通そうとするというか、
知ることは、自分の無知が危険を呼び込むことの想像力がないべか?
危険だから知識に執着するかと言われたら、知ることが楽しいからで。
世界の在り方が様々であることを知ることは楽しい。
ん〜なぜかと言われても、私はそんなもんで、そうじゃない人がいてもいいんじゃない、であるが。
知らないことが許せないんすよね、私は。
というか私の欠点に、中途半端な緊張感だと、予想外のことが起きると笑ってしまうというのがあったりするが、(ほんとヤバい)、
予期せぬことが起きるのは楽しいかっつーか安全圏から知ることを楽しんでいるのか?
アメイジング(?)はアメイジングなりにそれでいいと言えばいいけどというか、
- 作者: 牧村朝子
- 出版社/メーカー: 青弓社
- 発売日: 2017/10/31
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (1件) を見る
に「理解できる範囲に押し込めて「理解した」って言うな」ってありましたが、
(この本は、巷で言われていることより一歩進めて、しかも作り物でない肉声で、じゃあ私はそこからどう進めようかあるいは否定するか、なんすが、今、まじものの黙考する時間取れないからなーで棚あげられています)
それぞれの人がいて、それぞれの人生がある。でも人は一人分の人生しか生きられない。
だからこそ聞かせてほしいんじゃなかったのかな。単色に塗られた「その世界の人」の話じゃなくって、それぞれずっと色とりどりな、その人自身の話を。(略)
「理解なんてできない。でも、だからこそ決めつけずに知ろうとするのが”理解する”という行為だ」
疑似体験しかできなくても、知りたいと思う気持ちは、さて、としたときに、牧村さんの言葉は私にはすとんと落ちない、私なりに飲み込むとどういう言葉になるか。
この本も、まだ私が読み切れない世界があって、繰り返し読み返したいっつーか、手元に置いておきたい本っす。
知ることではなくて、知ろうとする態度を持つとはどういうことか?関心があること、無関心であられるのはつらいか。
無関心であることは、関係をつくろうとしていないことで。自分の外の存在を認めていないっつー?
分からないことは不安の種になる。他人と仲良くするにはよく知ること、とまとめれば卑小になるが、
他人の存在を感じることは喜びであるとは思う。自分と違う他人とそれでも仲良くできると、か?
自分と違う他人を認めることは、他人と違う自分を認めること、自分を受容できるようにも繋がると思う。
いかな他人の在り方であっても否定されるべきではない、(敬して遠ざけるときもあるけど)
というか、自分と違う他を認めるって、他の存在を認めるって、やっぱり好奇心があることのようにも思うッすな