ここではない世界

心の中のもっとも大切な部分、だれにも秘密だけど、支えとなるもの、と書くとまさに中二病だがっと。

スタンドバイミーにおける話し手が雌鹿と会った場面。

ふと気づくと、人生のトラブルにあったとき、ほとんどなすすべもなく、あのひとときに帰っている。(略)

さてさて、何と解釈すべきか黙考しつつ

を読んでいたら、

ある夏、彼女は自殺を図って、家を抜け出した。腰巻をひろげて、それに石を入れて腹にまきつけ、たもとに石をつめて川にはいろうとする。その時、頭の上で急にアブラゼミがなきだした。

なんという美しい自然であろう。なんという平和な静けさであろう。そう思った時に、急にふみ子は悲しくなった。

「祖母や叔母の無常や冷酷からはのがれられる。けれど、世にはまだ愛すべきものが無数にある。美しいものが無数にある。私の住む世界も、祖母や叔母の家ばかりとは限らない。世界は広い」

横浜の木賃宿から山梨の小袖部落の原始的な社会までを歩いてきた彼女は、幼いながらも、自分の中に、家をこえた広い世界をもっていた。

その世界には、この家の中のように嫌なことばかりがあるのではないことにも、彼女は確信をもっていた。

美しさで、雌鹿と同じで、苦境を救うものであるのも同じだが、スタンドバイミーと同じとしてよいだろうか。

ここの苦境ではないここではないどこか、に思いを巡らすもので。

「「誰かに愛されたかったら、まずは自分を愛そう」って、実際どういうこと?」なるヤフーニュースにワクワクするところに出かけたら、そのワクワクは自然と自信につながるとあり、そんなもんかな?

自尊心、惨めな現実と不釣り合いに、何を信じるのか。何を自尊心とするのか。

自分の住む惨めな世界と、美しい(わくわくする?)世界があると落ち着く気持ちは、頑張って世界を変えていこうという前向きな気持ちになるだろうか。

と、finalventさんの隆慶一郎の論を思い出す。

生きる意味としての啓示を求めるってこと、と、死ぬに値する生きる意味があるってんじゃなく、生きる意味を求め続けていく「歩み」が生きる意味であること(か?)https://cakes.mu/posts/13559

どちらかというと、美しい世界は啓示のようにも思うが、歩み続ける勇気をもらうという意味では、「歩み」の補助であるような気もする。

死の無意味さや、「犬死気違ひ」という必定も、永遠待たずして、その瞬間の永遠のなかに包摂されているのである。三島由紀夫的な美の虚無も転倒される。日本なるものも、救済や美への意志すらも必要とされない。人はその生涯の本質を死に向き合って生ききるとき、おのずから与えられるものである。

からすると繋がらない部分もありってな感じだが、私に引き寄せて書いてみる。

と、私は、理想が叶った世界、ここではないどこか、にリアリティがあるから、今の苦境も笑い飛ばせるのか、

今いる世界が、唯一で絶対で私の評価を決めるものだとは思っていない。

理想が叶うかは分からないが、確率×インパクトで賭ける財産を決めるのなら、叶う世界のための努力は実現可能性に従いヘッジする?

実現可能性は、他の世界の在り難さを低く見積もることができるなら、雌鹿の体験は大きいか、橋本治の夕焼け空に見とれた経験があるのならは、しかし、finalventさんが否定する美の世界のようにも思う。

美しさのために死ぬことができるのか。私の思う信念のために死ぬことができるのか、信念って大げさに言わなくても、その場その場で死んだつもりで追及したいことを追及するのが李乃助の生き様だって、

私は長期的にだめもとで播く目は播いておこう派なので、そこまで実存的になることはできないがって、「ここ」「今」だけにすべてを賭けるのも、今の世界が今の形であるのではないと思っていることにはなりそうだけど、

ここではないどこかと言ったら、逃避っぽい感じもして、踏みこたえる力にするのとの違いは何だろう、

で、続く、のか?