与えていいのは殺される覚悟のあるものだけか

「殴っていいのは、殴られる覚悟のあるものだけだ」は多分アニメのセリフ。

最近ローテンションで何が引っ掛かっていたのかといえば、このことだったぽい。

僕は自分のコントロールできないことに悩むな派だが、対人関係で言えば、まだしも結果が見えるような見えないような、不条理ではあるがその割合も低そうな?

を読んでおいら、キルケゴールの辺りをうろうろしていたのか?とか、自己の欲望と他者との関係の破たんを考えて、調和的になるにはのところで止まっていたのね。

調和的って、たぶん難民にも関わって、他者への思いやりが自己の利益の減少化というと、愛について、ここで思考が止まっているんだよなーふとした思い付きに肉づけをば。

たぶん他者が大事でないと、自分の利益の減少に耐えられないのが普通で、ネイションってあるのだろうとも思うし、関係ない他者のために自分の何を分け与えるのか。

欲望より概念を重視するってことは、殉じる正義があるってことで、大虐殺の未来も見えたりする。


と、スタンドバイミー、プワホワイトから抜け出そうとした少年Aは、ケンカの仲裁で命を落とした。

嘘つきの語り手でなければ、仲裁は得意だったので止めに入ったのではないかということである、(とこの手の読み、僕は外しまくるんだが)、

貧しいところで身につけた習慣で命を落としたと言えるかもである。

とすると語り手は、かつての貧しかったころの習慣をすべて切り落として生き伸びたんだろうか?

(たぶん鹿が入らないので、間違っている)

新しく生まれ変わった。

と、少年Aはミルク代を盗った容疑があったが、その犯人は先生、の冤罪ぽい。

先生はいかにもそんなことをしそうな少年Aだったから、その行為に出た。

偏見のなせるわざで、語り手もかつての環境をどうしようもないと切り捨て、それは偏見というのではないだろうか。

というか、人が変わることを期待するというのは、自分の命を賭けないとだめなんだろうか?

青空人生相談所で、かなり尽くさないとだめっぽいことは書いていたけど、自分の大事なものと引き換えの覚悟がないと、触らぬ神にたたりなし戦略が一番良しになってしまうんだろうかって、古老の知恵だよな、たぶん。

与えていいのは、殺される覚悟のあるものだけか?

差別があったほうが治安が安定する。マイノリティは差別する構造があったほうが、搾取しまくる方がいいんだろうか?

って問題は、リアルで安定した社会が続く国の観察でしかないけど。

いや、虎を野に放すって、結構好きなのである。

案ずるより産むが安しって、たぶん最悪なことは起こりにくい。

というか、安全と安心というか、オーフェンが女神が来る可能性があると、女神もこの世界に執着しないっぽく(呑み込めていない理屈だけど)、

自分が殴らなくても殴ってくる人がいる事実はあるのなら、自分がどうしようと殴られるのである。

自分がコントロールできる割合を高くしようって、自分が想定する割合って正しいのか?

逆恨みされそうな事実は認めて、でも、欺瞞でも助かる人もいるかもしれない。

村の神童はみんなで支えた、神童が村にいいことをするって保証があるわけじゃない。

その結果は神様にしかわからないのなら、やりたいようにやるッ、以上!(秋津君、若い、、、)

(なお、鹿は鹿で別口の解釈をしてしまったので(その時点でその解釈間違っている)別の機会に)