孤独と守るべきもの
分け合う人がいない孤独というか、クズの自覚というか、正義の感覚について。
守るべきものがある人って、守るべきものを失う、と失わないという比較、選択ができる。
選択肢があるってことは、余裕ができるってことだろうか?
先日、finalventさんがクズの自覚を持ったらいいんでないのっぽい議論をしていて、また、話し相手がいないならお金を払って得るとか色々。
私は真理の徒である。人知には限りがあり、もし過去に違うことしていたらどうなっていたか検証できないので、ベストが分からない。
真理なんて分かるはずもないが、それでも少しでも正しいことをしたいというのが魂に刻まれている。
正しさを押し通すために何を踏みにじるのか。非常に危うい。
本店に行ったらおかしくなるとは言われるところで、私は本店に行ってはダメな人だと思う。
しょうがない自分を自分と認めることって、それ以上を望まない。
自己肯定感て自己正当化だもんなー(?)ある程度以上の非難は攻撃とみなしていなす(って土佐弁か)
ある規範があったら、その規範は正義で、規範を侵すものを攻撃しそうにも思うし、
自分がクズだと思っていたら、他の人がクズでも生暖かく、見逃せるような気もする。
自分のブログの読者は世の中に3,4人だとは仮定して書いていて、(気の合う→自分の都合の良い)話し相手が欲しいとはあって、でも諦めて、ひとり呟いているわけだが。
私の意見に対しての反応はその見た人のものだが、そっとネットの片隅でつぶやくことを止められるとなったら、切れそうな気はする予感はする。
私は私の思考を大事にして、他の人と交わることのないもの(=クズ)を大事にして、自己を消せっていうのには抵抗がある。
家族をテロリストにしないために:イスラム系セクト感化防止センターの証言
- 作者: ドゥニア・ブザール,児玉しおり
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 2017/09/23
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- この商品を含むブログを見る
洗脳の過程は、イスラム過激派(という言葉を著者は使いたがらないが)の集団の一員であることをアイデンティティとさせ、個人である、考えることを放棄させていくことだそうだ。
「この世界は嘘に満ちている」映像を学習させ、「真実を知る」グループへの誘い、「選ばれた人」を戦争に誘う。
私は長年、イスラム過激派の言説が、この世界に自分の居場所がないと感じている人たちをいかに感化し、いかにして「神の地位を得る」という幻影を抱かせるのだおるかについて研究してきた。
私たちはアル=ヌスラ戦線に取り込まれた若者を、<ジハーディスト>の作り話(たとえば「真実を握るものが世界を再生する」)、若者たちの個人動機(たとえば「役に立ちたい」)、そして実際のイデオロギーの活用(自分たちの仲間以外を全滅させる作戦の共犯者になる)という三者のずれに気づくように導く。
ISはまた脱洗脳過程も違うそうだけど、ヌスラに関しては、「プルーストのマドレーヌ」作戦というか、子供のころの思い出を話して、消されている感情を浮上させていくのが第一歩らしい。
共同体の一員となるって、ファシズム(全体主義っけ?)、自分の正義を疑うことがないって幸せだろうと思う。
しかし、組織の作り話と、自己の目的がずれるって、現代日本でもありまくりのような気がしますね(汗)
完全一致することはなさそうで、組織を利用するって言葉もあるけど、何を提供して何を得るのか。
というか、個人であるには幸せな思い出が必要なのか(虐待されたこの救出は難しくなる)、幸せな思いでもないところで生きていくことはできなくて、新天地を見つけたほうがマシって、なんか含蓄がある。
僕は日本国民として(植えつけられているアイデンティティw)他の人が生きていいと思う社会を構築できているのか。
とトランプさんが出てくる社会というか小池さんは出てきて、それまでのシステムをひっくり返す人を期待するのはあんまし良くないような、現在に対する信頼、
というか、虐げられるという思いは、他の人への攻撃を正当化させる。
自分がクズであるという思いは、余裕がないと持てない気もする。
確率を考える、比較をすることと比較の仕様がないものががある幸せ、守るべきものがある。
比較するものがある余裕というか、絶対に守りたいものがあると、それを失くすこととの比較ができる。
守るべきものがあると、絶対避けたい未来との比較、選択肢ができるという意味では余裕になる。
他の人への関心が、正義が薄れるってことはあるかどうか。
推理小説で犀川先生が、犯人をわざわざ警察に突き出そうとは思わない、っぽいことを書いていたような、
正義が実現される社会ってどんな社会だろう。誰にとっての正義であるんだろうか?
あ、シルバーセンターが1時間1000円で話し相手になってくれるそうです。