生きる意味(その6)

あかんポエムっちまいました。いつものことだけど。


NHKの若いディレクターが脳性まひの妹を介護するはなし、5分バージョンを見ました。

今まで世話したことなかったとか、いや、将来お前さんが面倒見る可能性に気付いているのかいないのか、屈託のなさに少しビビった。

じゃなくて、世話をする過程でお母さんに「楽しくなくては(笑顔でなくては)生きている価値がないと言うのは、相模原と同じ」と言われていて(ああこのお母様でか)、

いや、苦難こそが人生、たまに笑うことがあるから生きていけると私は思っているんだにょにょにょん(あせあせ)

いや、リバタリアンとしては、人のするこた気にかけない、価値観色々で、人の価値観で人を判断しない、人だから尊重する

(とは、国の設定をしてその内部で自由平等を保証したから差別ありきなんだけどな。

まあ私の権利を侵害しない限り、他人を認めるというのは、他人が自分を侵害しないという強制力をもっているというか、

自分の方が偉いというか、と言うのは引っかかっているんだけど、市民の概念がいまいち分かっていないのもあるかどうか。

昨今の難民状況を踏まえてないっすね。)

自分に差別心が全くないとは言えないっす。人間だもの。

一生懸命生きる姿は美しいと思う。

一生懸命生きない人の生活も保障しなくては、でも、与えたお金を好き勝手にパチンコに全て使われてもなー、とリベラリズムで制限を与えるもんだと思ってる。正しいか知らないが。


人生、何が起こるか分からない感、人間て何をするか分からない感はある。

と、今の現状は悪い。でも30年後は分からない。

レジデンス大手前(高知城真ん前のマンション)、修繕積立金、ほとんどとってない。

S55年築。建て替えは難しいかな―しかしなー容積緩和政策、するとなればするような、どうなるか分からないから安いのに賭ける、とか。

未来当ては難しいっすねー未来に対する畏怖は持っていたいけど、必要以上に恐れたくもない。

必要に恐れるってどんなことでしょうねー

(と、日曜に書きかけて、通路が切れて、書き続けることができなくなっております。適当に小ネタで締めるか)

考えすぎても時間の無駄。考えなくては嵌められる。


朝、ちょくちょく見て、9話目っす。

主人公40だってさ。ここではないどこかに捕われてっつーか、友達の女に手をかけかけて、友達殺したとか、うーん、人を殺したセクシーさが出ていない(塩野七瀬)というか、ドスがきいていないというか、重みがないというか。

ここではないどこかを夢見て、どこにも行けないと思うのは、40ではすでに悟っていないとと言うか、監督何歳の作品だろ?

妙に35の思想なんだよなーと思いつつ、私の世代の話かなと思ってみている。

finalventさんが作家が自分と同じ年の作品を読んだら面白いと言っていたような言っていないような、なんとなくわかるようになってきた。

自分に可能性がないことを悟ってくるのは、大体同じ年よねー

いや、自分も面白いことないかと変なことに顔を突っ込むの好きなんだが、人生変わらないな、と言うのも分かってくる。

仔細では変わっているんだろうけど、変わっていない。

でも、年とってできることは減ってくるんだろうなーと言うのも見えてくる。

うーん、年取ったときのために、レジデンス大手前ーーーーいや買わねーけど。


たぶん、苦しみこそが人生だって言っても、本当に苦しいことがあったら、自分も歪むんだと思う。


背後に抱き着かれて、うーかわゆす、何だけど、大事な背後さん、他の誰より大事な背後さん。

平坦な世界に屹立する背後さん。人生に飽きなくてよい。自分の命より大事な信念てなんだろうね?

死ぬより大事なもの。まだ自分が死ぬ、私の可能性がないということが腑に落ちていない。

私の先は見えて、人生にも飽きるのか、いやいやこれから不幸のフルコースだから小康状態だから。

楽しいから生きるのか。楽しくても先が見えたらつまらない。だから目標を立てるのか。

努力しない人生を否定するのかと言えば、努力しなくてもしても、永久にこのままと言うことはない。

現状を維持するにも、イベントが起こってそれをこなすで精いっぱい。現状維持にも努力がいる。人生暇つぶしの種は転がりまくり。

私は何を当たり前と思って、何を維持しようとしているんだろう?

たぶん世の中は何でもアリである。一寸先は闇か光か分からない。光かもしれないかと思うからへらへらもしてられる。

人知なんてたかが知れている。私の力には限りがある。だから期待せずに努力もできる。

期待したら怖いというか、私の誰も見ていないから安心してブログ書けるの、期待するのが怖いだけだよねー

期待して努力したら、折れそうな気もする。過程が楽しいから、努力できる。

変わるかもしれない「可能性」にワクワクする。

人生の過程が楽しいから、現在の苦境も気にならない。だって10年後から見たら、今の出来事なんて話のネタでしかねーぞ。

過程、こそが人生で、どこの時点の結果がすべてでない、塞翁の馬。

その時々で、精いっぱい生きるとはどういうことだろう?

そこに楽しい/楽しくないの軸はない。自分で人生を決めるということは大きそうなんだが。

納得していないと、人生つらそうなんだけど。悲喜こもごも、振り回されるのも面白そうで、大事にするものがあるってのは大事なことである。

実存哲学概説 (1962年) (実存主義叢書〈3〉)

実存哲学概説 (1962年) (実存主義叢書〈3〉)

せっかく読んだけど、自分のテーマとはずれてぴんと来なかった。

実存は本質に先立つって解説読みたし。

のっぺらぼうの人生に、振り回される実存があるって生きがいだと思うのよね。

人生における大事なもの、大事な物がない人生は味気ない。生きる意味は作っていくものだと思っている。

何かに執着したら、大事なものを作ったら、その関係を最低でも維持するために、リアルと格闘していく動機ができる。