否定されること

ぼか―平川克己さん好きだけど、ものごっつー安倍首相を嫌っている。

割と僕はこいつ以前にひどいことされたよな、と思いつつ、まいっかで付き合っているんだけど、絶交ポイントってあるかな?

というか、以前「私が否定されることが正しい」と書いたのが引っ掛かっている。

私とあなたは違う。

あなたに対して私が全く違いを感じないのなら、不愉快な思いを全くしないのなら、私はあなたが私に合わせるように強制しているのだろう、という想像力というか、

違いがあるのなら、私の大事なことをあなたがどうでもいいと思っているのが当然で、私とあなたの大事な点が一致する状況が普通と思っているのは怖いっつー感性は変だろうか。

もちろん、私はあなたが大切なので、私はあなたが大事にしていることを踏みにじらないと同様に、あなたも私の大事なものを尊重してもらいたい、とは思う。

けど、貸し借り無しっつーのは、関係がないとは違って、借りがあっちの人こっちの人、行ったり来たりする事にも思っていて、どっちかに負担がある状態が通常運行というか、

これまた、僕は僕が可愛いからして、自分の方が負担が大きいと思っていても相手は相手で自分が大きいと思っていたりもするので、私が少し不愉快だなと思って、即、関係を切っていたら、友達いなくなるやん。(橋本治は潔癖だなーと横目で見つつ、丸くなったかな)

まあ親友なんて、数人いればいいという考えもありますが。

別に、嫌いな人が多いというのも人の生き様の多様性としてありとは思う。

自分、嫌いな人いるかな、と、思い返してみて、なんかきょーれつな本を読んでしまった。

鬱になった人は人間として正しく、鬱に追い込む人はそもそも人間じゃないっぽい本。

たぶんどんな人間にも自分の正当化ポイントはある。

相手の正当化ポイントを見抜けないと、動機づけもできないし、ぶつかるし、そりゃ生きづらそうだなー濃いなー

相手が正しいのかどうかと、相手とどういう関係をつけるかは別なんすよね。

相手は正しいと思っている、自分も正しいと思っている、それで妥協点を見つけるのがくっそ面白くもない交渉で。

地道な作業っす。

相手が正しいと思っていて、自分が正しいと思っていなくても、相手がいいと思っているのなら、僕は人を大事に思っているので、大事な人が喜んでいるならそれでもいっか、なんだよなー

某人は自分が理解できないと突込みマンなのだが、理解できない他人の心打ちを分かってくれよなーしかし僕は屁理屈屋でもあるので、言われたら向こうの納得する答えも用意できるって、納得できることを言うから突っ込むのをやめない気配もするのだが。

他の人にはあまりしない気もする、恋の始まりって今さら事故にしかならないなー

僕が切れるのは、×したのは〇と思っているからだと内心を決めつけられることかなー

でも、そんな内心の忖度されたの、5年ぐらいでないっしょ。

未知で不愉快な他人をゆるすのは、他人を愛おしいと思っていないと無理かなー

愛おしいのは僕にとって都合がいいからというより、馬鹿でも一生懸命生きるのが愛おしいと思える距離があるからかなー

何もないより何かあったほうが楽しいよなー

他人に合わせると自分では考え付かないことが起こるので楽しいよなー

未知って楽しいって破綻するとは思ってないよなー

自分にはないものを持っている人は尊重する。

自分に持っていて隠している醜さを前面に出せる人は、その意欲がまぶしい。

自分が否定して克己しているものをあらわにする人は許しがたいだろうか?

自分の大切な価値観を否定する人は嫌いだろうか。まっいっか、と流せないものが全くないのも背骨がないかなー

僕は決めつけがない人を結婚相手に選んで不満がないので、僕にとっての大事な価値はそれなんだろうな。

平川さんにとっては別なんだろう、というだけの話なんだろうけど