人生を繰り返すに足る
今日のお題はちょっと難しく、ふくらませる自信はない!
相方がが努力していたことを僕の不注意でダメにしちゃったりして、しかし気にしたそぶりを引きずらない相方は僕にはもったいない人だよなーとのろけと言うか、まあ事実上の新婚さんだし、幸せです。
たまたまの幸せである。現在の幸せは未来を保証しない。
橋本治は子どものころの夕焼け空に見とれた記憶があれば、大人になってのつらいことに耐えられる、と言っていたような、つらいことばっかりか。
と、yahooを見ていたら、選択肢が多く、幸せになれる可能性があふれていて、しかし実際はなれないと自分を責めるっぽくも書かれていた。
僕は幸せだけど、じつのところ、運がいいだけである。
僕にとって幸せとは、なんだろう。
ニーチェにならえば、ここではないどこか、を想像しないことだろうか。
「理想に住む」と書いたように、僕は、人生を旅路だと考えていて、ゴールは僕の人生の先、人類が数百年後に到達するとも思っていて、でも実現するだろ、いつか、今が悪くてもそのうちよくなるケセラセラ♪
で、現実に打ちひしがれるのを防ごうとする、というか、人生にとって、取り返しのつかないこと、と言う設定ができない。
起こることはすべて正しい。起こってしまったのなら、起こるべくして起きたと、思う。
そのひどい現実をどうやってダメージを少なく持っていけるか。
人生万事塞翁が馬ともいうか、起こること自体はどうでもよく、その後にどう影響するかが問題である。
人生は過程であって、ある時点のベスト、ワーストであっても、その状態がずっと続くことは有り得ない、時間の残酷さである。
でも、犬を飼おうと言っても、入院しっぱなしになったら、犬を飼うこともできやしない、ずっとそんな空間に死ぬまで閉じ込められることはあるんだけどけど。
僕はそうならなかったけど、そうなる可能性はあったか、うちは家族がいいから、そんなことはなかった。
でもただの偶然で、可能性だけで言えば、入院しっぱなしも十分に考えられた。
過去形か?過去形にしよう。
宝くじが当たった未来を想像することは楽しいが、時間の無駄であるように、可能性と言う名の起こりえないことを悩むのは時間の無駄だ。
もちろん、私の病気が再発するのは宝くじが当たるのよりかずっとありうる可能性だけど、備えること備えたら、(貯金とか?と言うか大切な思い出を増やしておくことだろう)、あとは運を天に任せるしかない。
そうなったときに、喜べばいいのと同様に悲しめばいい。
ペトロニウスさんが出世して、普通なら打ちひしがれるしかないけど、なぜか今まで準備していたので、苦しいけどこなせないでもない、そうなるとは全く考えられなかったのに準備していたというようなことを書いていた。
引き寄せの法則とか題名だけしか知らないな。
でも、神田昌典というか、頭の片隅に何かおいていたら、そっちの方向にイメージトレーニングするというか、はきだめに鶴、ということは、あるかなあ?
ないっぽいような気もするが、課長にふさわしいのは係長時代から課長の仕事をしていた人だもんな、たぶん。
あ、なんかオカルトに傾いてきたな。
人生に繰り返すに足ること、なんてあるか分からないが、理想の実現に向かって必死に努力していたら、過去を愚痴るのは時間の無駄で、今の人生に一生懸命になったら、繰り返すもくそも考えるだけ時間の無駄だ。
そうありたい理想を考えて、打てる手を打っていくそうしていたらあっという間のアラフォーで、あっという間に70にもなるんだろう。
打てる手を打ったら、状況を変えていけると思える楽観性だけど、今の私の限界はそこですか。
大学生んとき、どうも留学可能性が低くなったとき、某助教授に企業からお金を集めたらいいやんと言われたらおいおいと思って、先生京大生だったもんなーとなんとなく敵わない気持ちになったことを思い出しつつ。
できないことはあっても、よりできるほうに近づく、そのものでなくてもそのものに似たものに近づくことはできる、と思っている秋津君は運がいい人生のしっぺ返しを受けそうにも思っている。
(なんだかんだで、当座の結論が出る、秋津君の頭の中は本人にとってもブラックボックスだから、書き続けることが面白くてならない)
(追記)
限界まで努力したら、他の可能性なんて想像できないし、努力できなくてもそれが私の人生だったと納得できるって、無理なことを努力しすぎて病気になったんだけどね、ニャハハ。
何事も環境のせいにせず、自分で判断したことと思えたら、諦めもつく。自分に選択肢がないと思ったら息苦しい人生になる。
選択肢があったのに、現在の不幸な結果が気になるかな?選択して努力したら、結果が思いどおりにはならない人の世のはかなさは受け入れている秋津君。
なるのは、王様と乞食だけ、することは選ぶことができる。