ベストよりベターで
〇〇だから××するってすごい不思議なのだ、私にとっては。
今まで起こったことからだと言っても、次に起こるかどうかわからない。
でも当然のように思っている。
××するから△△になる。
悪を悪として為せる人(自分を正当化しない人)がどれほどいるのかと思ったりもする。
△△にならなかったとしても××するのか。
意味が失われるとしても、コミットするってどんなことだろう。
100%起こると分からないけど、それでもコミットするのは。
ペトロニウスさんの意味のないことにコミットすると、コミットすることが意味になるっぽいのもずっと考えている。
××、過程が重要だから、結果はどうでもいいとするべきか。
続くか?
と、最近子育てクラスタも見ているんだが、成長の踊り場に来たときは辞めさせずに励ます、とか。
でも、壁を突破できるかどうかは結果論でしかなく渦中は分からない。
才能がないのに、続けさせるのは可哀そうか。
好きならつづけたらいいんじゃねというか、ぼかー中学の時柔道部だったが、一勝もできない才能がないとはこういうことなのね、である。
というか、好きを仕事にするべきか、とか永遠の課題ではある。
他人様から銭を頂戴するには、何かをしたという結果に対してであり、結果を求めるのは分かるけど、私的な趣味の部分で、結果を求め続けるのは、
この場合の結果は、他人が評価するもの、であるしな。
他人が評価する結果に拘るのもつまらないと思う、愛されるおじさんなんて気持ち悪いだけで、持ち場で頑張るのみ。
仕事で結果を設定して、試行錯誤するのも楽しい。
私の場合、試行錯誤するのが楽しく、結果はどうでもいいというか、結果を重く意識すると、あまりよろしくない状態に追い込まれる。
相方が偉いなーと思うのは、自分の限界をきちっと見据えて、そこからやれることを計算していくことで、とりあえず引き受ける自分との、無茶でも頭を使えば穴はあると思っている自分からすると歯がゆいようで見習わないといけない40近く。
結果を一つに置いた時の、一つ以外を認めない態度は美しくあるが、子供のものだ。
自分が変わっていくときにずっといつまでも一つの結果にこだわり続ける成長のなさともいえるかだし、
結果に近づくために血反吐を吐いて(私がそこまでできるかというと言えねーけど)、努力していく「過程」が人生だと思っているなわたしは。
実現できない結果は理想というべきで、理想は実現できなく、それでも努力できるのは、あくまで理想が美しいからか、過程が楽しいからか。
いや、努力していると、なんか妙な方向から助けられるということはよくあるというか案ずるより産むがやすしというか、とは思っていて、ジタバタしていたら、次の課題が見えて、それを解決―とかしていると、なんか遠くまで来ちゃったいつの間にか。
始めの目標と全然違うけど、それなりにしっくりくるところに行きつくのよね。
(ちなみに年度目標、3年目標を立てるのが死ぬほど嫌いです自分は、状況は3か月もあれば変わるだろ〜)
最初の地点から違っても、誇るべき結果で、他にやりようもなかったしな(ニャハ)と自己正当化しちゃうぜ♪
どんなことも死ぬまでの時間つぶしでしかない程度の、パンピーの結果なんて忘れ去られる程度以上はできなくて、それでも何が残るかというと、全力を尽くしたってことだけで、
その時正しかったこともやがては否定されるし、んでも走らざるを得なくて、仕様がないやん、次善の策で生きてるぜ。
ベストでなくてベターで生きるってどういうことだろう?
そこそこならいいやん。と隣の人と比べると疲れるだろ、とも、自分で悟らないと、人から言われても納得できないだろうけどの難しさよ。
不安がないなんて、人類史上ありえなくて、主観では不安がないなんて、ないんだけど。
なんか今日もポエム以上を書けないが、まあ2日もしたら、自分の書いたことが整理できるでしょう?
睡眠不足で頭痛いのもあるし、無理をしようと思わないとブログ書ける状況にないので、無理をやめたらズルズル日が過ぎてブログ書けないな。
ペトロニウスさんオフ会するのかヤホイと思ったけど、相方に土曜に飲み会行くので3時間くれと言った時に、平静を装う上ずった声で行ってらっしゃいと言われると、
1日留守にしたいんだけどと言った暁には一生言われる〜のが見えたので、やはり、へーこら我慢するのが家庭の平和を守る道なのだ、でした。もっと増やしたいし?