期待せずに努力するには?

受け入れがたい現実を受け入れる/拒否る/無視る、の選択を選び、その選んだ思想で生き残る人は、その後の人生に対する意欲をそがないというのはどういうことか。

起こっちゃったものは受け入れるしかなくて、しかし受け入れがたいものがある。

受け入れるとそれまでの人生が否定されてしまう。

葛藤があって、しかし大体人間的にはがんの受容の4ステップだか、生きがいについて、だか、受け入れのパターンは有る。

宮台真司カトリックの「見る神」と言っていたような、現代のヨブ記の「そばにいる神」だったか?、一人で認めがたいときも、他に誰かが一緒にいてくれると思えれば、この葛藤も流しやすかもしれない。


受け入れても、私が変わらない、何が起こってもってな人はどんな人なんだろう。

現実と理想の落差でそれを埋めようとするのに意思が発生するのなら、やる気のない人になるのか、それ以外には?

「理想に住む」と書いて、どんな状態なのか、他の言い方を考えていた。

理想の実現に確信があるので、現実がひどくてもめげない。

というのと、一歩一歩近づく過程を楽しむので、結果は問わない、は違うだろうか?

結果はコントロールできないので、私は結果に期待して自分ががっかりするのが怖い。

ゴールの設定をあいまいにしたがる私の悪癖でもある。ゴールまでの過程の精査が甘いというか、時間を突っ込むことで解決しがちというか。

持っている資源の限界は無視りがちなのよね。いいけど。

結果と過程が必ずしもリンクしなくても平気になるにはどういう頭の仕組みになればいいんだろう?

っていうか、夜と霧を見ないことには、この続きは書けないけど、図書館の積読本が6冊ばかりの状況では優先順位が、というか、昨日は頭が痛くてブログ書けなかったのだが、書くのに3日あけると、前回の熱がどっかいって閃きの種がどっかいくので不味いなー

しかし、本格的にブログの優先順位を下げざるを得なくなっている、の止めるやめるサギであった。短くする?