どういう世界観で生きるか

たとえブログが炎上して、コメントが否定ばっかりでも、世の中の99.9%はそんなこと知らないと思う、現実で触れるのとは違う根拠のないことを全体像とするのは、

賢者は歴史から学び、凡人は経験から学ぶ、ということかというか、目に見えない全体性の設定をどう形作るのか、

世界観をどうとるかってなことかな。

「意思すること」橋本治だったか竹田青嗣だったか、現実を変えようとすることは現実とは違う世界を夢見るということだ。

子ども時代に夕焼け空の美しさに感動したら、それで生きていける、だったかの橋本治は、世間は自分を傷つけようとする力で満ちている、んだったか、リアルは全くもって厳しいけど、それでも希望を持って生きるには?


私は正しいことをしたいというのが埋め込まれているので、楽しく生きるというのは議題に上がらない(私の人生のテーマとは違うだけ)。正しいことをするのが快感である。

で、どうしてシリアの人をほったらかし気味に考えるかと言えば、私が投入すると仮定する労力、お金が効果が出るように思わないからである。

生産性、インプットに対し、アウトプットがもろめっちゃ低そう。

んでも、逆に言えば、私の投入が効果あると思わせられたら、投入するのに躊躇しないと思うのよね。

で、私はアイヒマンになるんだろうな、とほぼ確信を持っているのは、世間が提示するもっともらしさ、に引っかかることが目に見えるからだ。

プロパガンダの本を4,5冊買って目を通していない(のだが関心ある)、動員をかけるには自分の価値観の尊く思うものを必ず踏んできて、私はそれに抵抗できないだろう。

人生は無駄な不合理のためにあるが、一方で合理性を追求しないと、不合理で遊ぶための資金・時間がなくなってしまう。

不合理を止めるには合理的だとは思うが、私は合理的でなくてロマンに生きているからな?

(後期ロマン派の限界について勉強したい)

ただ、大きなことは風が吹いて桶屋が儲かるというか、私が試行錯誤して(経験で)物事が動く因果がわかるわけでなくて、誰かがそう言っているから、こうしたら次はああなるの論理が出来上がる。

虚構に過ぎない射程の長い論理を、シリアの子を助けるには私の(個人の)力が必要と思い込ませるには?

射程の長い論理を当たり前だとして、射程を長くしないでも今起こる原因と結果は、次に起こる結果と異なることも多そうで、当たり前と思うことをどうやって当たり前と思わせるのかというのと

マインド・コントロールの恐怖 (ノンフィクションブックス)

マインド・コントロールの恐怖 (ノンフィクションブックス)

最近、「当たり前」と思う常識というか、疑問を持たないことというか、私は温かい家庭で育ったので、苦しい事態がイレギュラーで愉しいことなんだが(私はサザエさんが苦手というか嫌いだ、リアルがあんなもんなので、わざわざ時間をかけてみる気持ちになれない)、

当たり前(前提)で行動が全く変わってくるということが不思議で、

うーん、合理的な考えの結果であっても不合理な結果(世間では尊い価値観を踏みにじる結果)になるのも十分ありなんだよなーと思いつつ、問題提起編でした。

不合理と合理のベストな折り合い点の設定、正義(自己の絶対化?)のストッパーは気に入らない現実を受け入れることで、気に入らなさとともにあることは、自分の正義が(少し)否定される世界に住むのは正しい。

極端のストッパーということかな?

あなたが私の気に入らないことを言うのは当然だと思うリベラルは、しかし、他の人の口を閉じさせようとするのはとめないとの矛盾というか、超えてはいけない一線の設定っていうのは、設定無理ないつの時代にも正しいことになるのか?

私の理解できないものと、私の正義の共存、あるいは、否定されても生きていくことのできる多数派の道楽。