本という居場所

夢の中で、そうか、私の無意識は私の書き書きに対する評価は高いのか。

私の理性は世間的な評価とは縁がないとは思うが、無評価は無評価で、楽しいので。

海燕さん、ミソジニスト?に対して言を取っていた(という表現があるんだか)が、

私はそれはつまらないと思う。

ミソジニストは好きでやっているんだろうし、私はミソジニーが無茶なことだと分かっていて、趣味が合わない人は遠くで幸せになってもらいたい。

私が友達になりたいというか興味があるのは、リベラルを広げる方法であって、

そんなの思いつくのこれまで地球上に居なかったやん、でありますが、

そこから先の議論が見たいし、それを話し合う友達がほしい(?)。

そんな友達が欲しいと思ったら、そんな友達が興味を持ちそうな話題を話しているしかない。

というか、今ちょびっと考えているんだが、本の効用である。

本で、自分の心の居場所を作ったら、リアルにでていくのである。

んで、連休中、兄貴が落ち着いていていい雰囲気になっていた。あーこりゃ結婚できるかもなーと思った。

世間に対して受容度がある程度ないと、起きていることは全て正しいと思えないというか、目が曇ると言うか、

受容度が高すぎても無気力で面倒くさいが、起きていることを受け止めて、言いたいことを言うのではなくて、現状を動かすにはどうしたら良いのか、効果的に考えるには、とりあえずの需要度の高さは必要だ。

「あー実家に帰ったら桜が咲いているかもです」と言った3月下旬。

「まだ咲いてないでしょ」

「いえ、ソメイヨシノでないんです。なんかさくらんぼの一種みたいで」

と、この咲いてないでしょのツッコミのキツさというか、テレビで桜前線で咲く気配がないのは当然として、自分の認知を絶対視しない柔軟さ、限界を知っている(けど諦めない)、会話で不用意にキツさを発揮しない、相手の心を荒らげないというか、心地よさを演出するというか、の余裕を発揮するための居場所を本が提供するというか。

逃げ場所があるって良いでしょ?

と、もう一点、本を読んでおくと良いなと思ったのは、こたつで鍋を囲むのはスーパーマンの存在と同じフィクションだと思っていたという環境にあったとしても、

自分の家庭がいかに悲惨であったとしても、他人に対して優しさを発揮できるという想像力を得る、自分がどんな人になりたいのか、どんな集団に所属したいかの情報を得る場になると思うのだ。

と、今、少し考えているのは極限の状況である。

宮台先生は追いつめられたときにかっこいい人が本物の人だ的であったのだが、私は見たくもない自分の本心を必死で糊塗しているのに、その克己心をないものとされても辛い。

場面場面での自分の人格は何だと思うし、現状と違う、本の中でリアルを絶対視しない、仮想状態に心を置くというのは、どういうことか、ちょびっと考えている。

ペトロニウスさんのアメブロは時々チェックしていて、ミクロとマクロの話最近はしてくれないのね、と寂しく思っていたのだが、連休中に2009年頃の過去ログを見ていたら、Fateの感想で、折り合い点を見つけて、結論は出していたのね、というか、

>>

士郎、セイバー、エミヤは、「心の在り方」や「自分の誓い」という部分に強い誇りを感じているのですが、ようはこれって、幻想なわけです。しかし現実がひどければ酷いほど、心の純粋性の強さというのは、輝きを増します。これらの存在の美しさとは、「そこ」にあるわけです。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20091218/p1