客観性の追求・人生は手段か目的か

人生は楽しむためにある(はずだ)!

客観性の追求って、どこまですべきなんだろう?

ぼかー自分の価値観も他人の価値観も大事派なので、客観性ぐたぐた言われたら、(言われたことないけど)、あなたはそう思うんですね。と流したい。

というか、人と付き合うために、付き合いやすいために必要、仕事するうえでも必要、でもどっちもあんまり追求しないでいいとしたら、必要ないよね。

客観性を強制できる根拠って何だろう?

というか、客観性って、確率の問題のような気もして、(論理が飛んだ)、愛するときや、無理だと思うことに挑戦するときには邪魔くさい。

自分に対して冷静すぎると、チャレンジャーにはなれないような?

客観性の反対は、楽観性や悲観性になるのかな?

楽観性や悲観性は出したり引込めたり、適当な場ってあるんだろうか?

というか、内省と自尊心の出したり引込めたりと関係あるか?

内省しないといけないときってどんな時だろう?

過ちを繰り返すのはウザい。

過ちの繰り返しを避けるために、客観性はあるんだろうか?それだけ?

何を過ちと設定するのか?

自分の主観を自尊心を損なわないために、現状を分析するのに客観性を追求するのは必要か?客観性は従?

他人の価値観=客観性と、僕的には結びたいかな?

でも、なんというか、主観が打ちのめされる瞬間って快感よね。

新しい価値観、正義、真理に触れたと思うって、大学生までに何回か経験しておくべしというか、回数こなすと、またか感があって、ある一面に過ぎない、残る自分がある(宗教に引っかからなくなる)のは自衛のために当然だけど、あの正義に酔う感は経験してみるとたまんないよね〜

優先順位が変わるって、どういうことなんだろう?

いや、私は銀英伝で、「信念は生きるための方便です」をじーとかんがえているというか、それもつまらないと思う、自分の生より大事なものがない人生もつまらないよね、僕もいまだに自覚はないけど。

人生は目的か手段か?死ぬまでの時間つぶしと思えば、酔狂もできる。

自分は大事にしたい。自尊心を大事にしつつ、捨てることもできるというか、自分の価値観も他人の価値観も大事なら、バランス問題で、自分でないものに没入してもいいわけで。

究極のバランスなんてないんだろうけど、今の自分の着地点を考えてみたいかなー

優先順位が変わるってね、TJOさんが書いていたけど?、ちょっとの失敗を気にしすぎて方針を変えると、失敗は単なるノイズの類だったりして、頑固すぎてもいけないけど、変わり身が早すぎてもいけない適度さ。

会社の方針だと、適度な転換がよろしかろうで、主観の優先順位が変わったときに起こることの優劣、どんなことなんだろう?

主観に優劣ってないよね?環境との摩擦具合の大小?

(ポストモダン的に、客観なんてないというのは2010年代の話題でもないので略しました。)