認知的に
僕の考え方は
- 作者: 西田公昭
- 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
- 発売日: 1995/08/01
- メディア: 単行本
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認知は、というか出来事は、箱の中で放り込まれるような形で整理されているようなスキームと言ったか。
ちなみに僕は、状況から新しい出来事を認知するのは苦手です。
そっちの才能ナッシング。
何か起こったときに、これは新しくこれから繰り返し起こることの最初の一回目なり、二回目か、それともただの偶然かという判断で、あらかじめのスキームから出ることの出来るのは才能だと思う。
偶然、というか、何か起こっても、Aが起こったと思い込んでいて、実は起こったのはAでなくてCだったのだ、なんてわかるわけない。しかも、AとC、概念が重ならない部分も多いし。
で、このあらかじめのスキーム、学習性だと思うのよね。
色んな出来事が起こるが、どれとどれを因果関係で結ぶかはそう違った判断ができない人類の種としての限界というか、
人と話していて、宇宙人のようだとはあまり思うことが少ないのは、(世の中に起こることはあまたあるのに話が通じないと思うことが少ないのは)それなりに人類共通に因果関係を結びやすい癖があるんだろうと思う。
このドラマ自体がそもそもこうした共時性をベースにしたファンタジーなので真に受けることはないのだが、思ったことは、共時性を成立させているのは外界での一致ではなく、意識の場のなかで起きるので、むしろ、意識が外界に投射された、ある現象だろうし、さらにいえば、共時性というのは、外界での偶然の一致ではなく、意識がそれに気がつく事象なのだろう。
その意味では、共時性というのは、意識、むしろ無意識のなかに用意されていて、それが外界に突出してくることなのだろう。
https://note.mu/finalvent/n/n87536dd1e047加えていえば、これが高速化されることで、世界=現象の中の細かな因果性は、むしろ意識・無意識のフレームワークのほうに絡め取られるようになる。簡単にいえば、情報化・SNS化によって、人の無意識の共時性が世界に現れやすくなる。
政治の世界では、これを「ポピュリズム」や「愚民化」のように見る向きもあるが、それ自体が人類無意識の共時性的な出現なのだろう。
https://note.mu/finalvent/n/n54e678d1c24f
悪を行う善をおこなう、どちらに転ぶか分からないのは、すなわち善悪にこだわりがないということで、善悪より優先順位上位の価値観があるってことかな。
善悪を重視する人が多いってことは多くの人がそれを価値観の上位に置いているってことなんだと思う。人類の共通概念?
一回の幸せで人生をふるのかってな感じですが、マイクロソフトの人工知能がツイッターでこけていましたが、何事にももっともらしさが(当人には)ある一方で、他人から見たら瑕疵のある価値観でいる理由はなんでっしゃろ。
と朝考えていたけど、カシューさんがアシュラムさんと争うのは立場の違いだっつってたような、成り行きもかなり大きそうな。
アシュラムさんの思想の違いは、なぜそれを選んだかが欠ける。
成り行きでないとき、あまたある価値観の中であえて本人が選ぶ理由に共通性はあるんだろうか?
ログホライズン、8月からの章は8月までとこないだ一番最後だけを見た。
起こる出来事は結構どうとでも取れるときに(偶然か新しい因果律の始まりか)、スキームとして形を与えるのは、本人的に気づかない、あるいは自信が持てないのなら、信頼できる誰かがそう言っていたからということだけかな。
因果律を作るのは結局頭の中でしかない妄想で、(大勢の人が信じる)妄想は実現するってそろばんの(愛の)話とつなげられるんだか、である。