みっともなく

(追記しました)

私は病気の再発で、入院しっぱなしとか、(死んでしまうとか)、想像できまくりである。

社会的に抹殺されたとして、それでも生きる意欲はどうやったらできるのか?探している。


みっともなく生きることの肯定理論なんだろうか。


話題転換して、僕は健全なので、働けなくなっても、自分のせいじゃないしーとする逃げ道は確保できる。

でも、病院の看護師さんの使命感に生かされている感じは萎える。

私個人じゃなくて、介護施設なら、おじいちゃんと呼ばれるような、誰でもない人扱いはな。

贅沢言ったらいかんけど、そこでも明るく生きるにはって、そこで自分なりのソンゲンを確立する方法をだな?

ご飯の時間だけが楽しみで、時計を15分ごとに眺める生活から抜け出すにはには、熱中できることを見つけることか。

自分なりに何か目標を立て、達成未達成に一喜一憂する。

健全でもあっても、人生って死ぬまでの時間つぶし、であるけど、健全なほうが劇的なんだよな。いいけど。不問にきす。


人の大事な人になるには、相手の都合のいい人になることが必要で、それは、自分を殺す、つらーいことである。

朝の連ドラをたまたま見ていたら、ジーちゃんが、兄貴(年寄り)は一歩ひかなくてはいけないと言ったその口で、若い者の経営方針に反対していたので笑ったというか、

なかなかできないことではあるけど、自分の意見を捨てて、相手に協力すること。

finalventさんは、年寄りは若い人に教えたい欲求を捨てるがよし、ってこういうことなんだなというか

愛されるおじさんを諦めろというは、それを無理として好き勝手に生きたいよねって言うことだし、

「他人にメリットを供与し続けて自由を得ることも必要だけど」的に、

お金を稼ぐためには、人に迎合することも必要で、(僕は周りの人と良好な関係を築くことも大事で、迎合もせねばならぬ)、

好き勝手と迎合のバランスを少し間違えたかと試行錯誤して暇をつぶすのもありか。

ただし、その暇つぶし理論には穴があって、試行錯誤の選択肢がある、人生詰んでないよね的、これからの課題のようにも思った。

でも、僕理論で、小説で一番ドキドキするのは、どっちも大切なものなのにどちらかを選ばなくてはいけない選択肢を突き止められた時理論があるのだが、

選択肢がないなりに、選択をしなければいけないときはあって、

というか、これ以上悪くなりようがない状況ならば、自分が動くことで好転(する可能性)しかしないので、動くしかないよね、

「目の前の現実はありのまま認めたら、自分の思う方向に持っていくにはと知恵を絞ることはできるんではないか?」

そんな生易しい言葉で言い尽くせるものでもなさそうだけど。

これ以上悪くなりようがない状況で可能性を求めてじたばたあがく、みっともなさの肯定って、なんだか最初の想定とみっともなさの状況が違うような気がするけど。

うーん、潔く生きる、ってそれも天恵よね。

ないものねだりで人類が進歩したのなら、

手に届かぬと思われるものを追い求める「希望」が一番偉い(?)のか。

「希望」って橋本治が重視していたような気がするけど、違ったような気もする。


(と、この手の話は、PV伸びないけど、私にとって大事なことなので、で、書いてたんだけど、滞在時間は伸びた、か。

 広い世界に気の合う人はいるんだろうかって、中二病よねと隣で)