矜持と生きる意味と
私は病気の再発で、入院しっぱなしとか、(死んでしまうとか)、想像できまくりである。
社会的に抹殺されたとして、それでも生きる意欲はどうやったらできるのか?探している。
「大人女子を演じるのはもういやだ」とヤフーニュースを見ていたら出てきましたの東京カレンダーです。
最近、「演じる」というのがマイキーワードです。
つらいです、と言い切るには、まだなんちゃってで通しているので楽なんだけど、嫌だでやめれるようなもんじゃないだろの35で詰んだってそういうことじゃないのか?
前にもすすめず、後ろにも退けず、持ち場で頑張るだけです(というにもまだ僕は夢見ているけど)
レオンとか美魔女とか、泥臭い仕事をせずにスポットライトを浴びたいんだろうな、雑誌を買うぐらいは許してよだが。
んで、なぜか「矜持」という言葉が閃く秋津君です。
「矜持」ってやせ我慢から生じるもので、世間的に認められる価値観を自分が体現しているから生じるってのはなんだか秋津君的には違和感がある。
「なる」のは「王」と「乞食」だけ。「なる」ことより「する」ことが、なんだっけな、人生の在り方っぽく、山本七平が内村鑑三の言葉として引いていたような、自分がどういう人間になりたいかだけが、どんな状況にあっても自分で選べることだと思うのである。
強者の言葉よのうとも思うが、やせ我慢こそが生きる意味ではないかな。
合理的な生き方は、理がある、皆が認める価値観の生き方で、それを超えた誰もができない、不合理、損は自分しかできない、独自の、個性が表れた生き方で、
天から与えられたものを誇るのもどうよで、生き方だけは自分で選ぶことができる。
意思の強さも天によるものならば、自分であるものは運命の書き割りかって本気で思っている人もいそうだけど、目の前の現実はありのまま認めたら、自分の思う方向に持っていくにはと知恵を絞ることはできるんではないか?
持って生まれた運命は有ったとしても、その状況に甘んじる運命の奴隷は僕的にはどうしてつまらないのか。
動物園のゾウと飢える自由と。他人に依存することは、他人の気分次第で切り捨てられる。
自分の考え(価値観、ものさし)を持つことは、他人の価値観と距離を置くことで、でも他人にメリットを供与し続けて自由を得ることも必要だけど、そこそこにしておいてのおじさんか。
というか、尊敬し合える関係でもなければの長期間続く関係は、痩せ我慢と関係があるかな。
滅多にない(尊敬しあえる)関係は、見ない個性の人だからこそ築かれる?
しかし結果として他人の心がついてくるのであり、孤立を恐れず好き勝手おじさん化が望ましくも思う。
ありのままで、努力せずに認め合える関係は妄想はするけどね。
ありのままで我儘するけど、痩せ我慢に誇りを持って世間的な評価は求めず?