人の価値観、自分の価値観(4)

最初は、ペトロニウスさんの試行錯誤をして、人と違う生き方(価値観)を育てていたら、竹田青嗣の「自分の言葉を蓄える」ことになる。
こんな価値観もありかと周りの人たちを自由にして(庄司薫)、友達もできる。
そこで、フェアな友人関係、友達からも影響を受け、ますます自分の価値観は自由になる(竹田青嗣)。
http://d.hatena.ne.jp/akizu/20150411/p1

と、自分、1年半前に書いていまして、(すっかり忘れている)、おお、なんかいい文章よのう。

私は、人の価値観ばかりに合わせていてもつまらないが、自分の価値観ばかりでもつまらない。両方大切派である。

究極的には、自分の人生、自分の生き様(価値観)でないのかとは思うが。

人は一人で生きることはできない。人に合わせていくことも必要で、というか、自分は人の価値観に合わせるのも苦痛ではないたまたま具合で、単に運がいいだけである。

自分の大事なことが世間に否定されない。

というか、自分の大事なことが世間に否定されるって、ふざけんな、自分はそれなりにいい人で、そんな自分の大事なことが否定されるのなら、世間のほうが間違っとるわいで、テロにでも走りそうな具合である。

幸いそういうズレはないんだけど。

というか、世間からそこそこ大事にされた方がメリットがあると思って、世間に合わせる程度と、コストを払う天秤が本人に言わせるとズレがないというか、うーん幸い。


いつもと同じネタだな。で、僕は現状に満足しているから、ここではないどこかって、よく分からなかったのだが、最近その回路が理解できたような気がしたネタを。

僕が、世界に3,4人ヘロヘロネタを話す友達が欲しいとぶつぶつ言っている→友達が欲しい、今はいない→どこか違う世界には自分の友達がたくさんいる世界があったらいいな、ではないかと。

自分は特に否定されていないので(こんな内面を持っていると吐露したことがないというか、勇気がないので傷つく可能性の高い告白経験なし)、異世界を強烈に意識したことがなかった。

なんというか、自分が受け入れられないことが標準仕様で、相手がうんうん言ってくれたら、ぜって―それは無理して合わせてくれているだけなので気持ち悪し(?)

ありのままの自分は醜いという拒否感がある。いや、肯定するけど、他人に合わせてもらうと悪いなっぽく(って矛盾具合が私の特徴なんだろうな)

内面を隠し事して、排除されないのなら、幸いであるでせう(謙虚)と、現状全力肯定してしまうのであった。

対して読者である私たちの大半は、ヌーネスのような複雑な民族的な背景もなくこの世界に到来し、暮らし、恋をし、そして老いて死んでいく。だが、そうしたありきたりの人間でも、ありきたりな世界、あるいは理想的な世界であっても、どこかでいつも本当の自分というもののへの違和感と、自身の異邦人感を持ち続けるものだ。それを理解しようとすることは、自分がなぜこのような人生を歩んだのかという問いであり、また父母という歴史的な存在への問いになる。

極東ブログ http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2016/12/post-2941.html

なんとなく、現状への違和感は理解できたが、なぜ自分がこのような人生を歩んだかの問いはまだしっくりこない。その辺、自分に無駄に自信があるのが裏目に出ている気がする。

だって、私を否定する世間のほうが悪いんだも〜ん。(この強気と弱気の出し入れの基準が自分でもよく分からへん)

ああ、幸せな私(しっぺ返しを食らうんだろうな。いつまで逃げ切れるか)

中一の時に舞姫の感想で何で一緒になる根性を見せなかったのか理解できないと書いた私は、基本的に文学的感性が欠落気味なのであった。

人生を危険にさらせ!

人生を危険にさらせ!

(須藤さん、本文が甘いのは編者の手が入っているせいか(?)、本人にすべて書き下ろしさせたかったなーおもろい子や。本文の切り込みは甘いけど、感性は本物だろう。)

私は否定されるのなら、そこで、自分の居場所を作ってやる方に燃えるな(?)いや、そんなに欲しいものってないんだけど。

ユウタロスさんが、中年男が意思と外部環境のつじつまの合わなさに苦しめられないのは運がいいのかリスクテイカ―していないかと書いていた(?ツイート消されたので不確か)だが、幼い僕だった。