他人をモノとして見ないことと正義の心

なんか頭の中で練っていると説教臭くなってしまったけど、気にせず行くぜ。


ポリコレなんて面倒くさかったんだよ、というのが顕になったんでしょうかの昨今でござる。

私はどうも自由大事なリバタリアンなような、禁忌があるのを忌み嫌うので、気持ちは分からなくもない。

思ったことを口に出せないのは辛くもある一方で、自分が何かを一方的に言い募って相手に反論を許さないのは品がなくて嫌いだ。

finalventさんが心のボットネットと書いていたが、なにかを言われて、反射的に否定に回る(肯定に回る)のもみっともないと思う。

どうして相手がそう考えたのか、私の知らない根拠があるのではないか、私が間違っているのではないかという思いはいつも持っていたいと思う理想論だ。

ま、脊髄反射した記事がこのブログにもあるので、理想論なのだが。

結婚しないのか、子供は産まないのか、気になるところで、相手が言い出さないのなら突っ込みもしないが、と言いつつ、くだけた雰囲気になったら聞いているような、タブーである。

だって、気になるやん。相手に関心があるのなら気になる。どうでもいい人はどうでもいいが。

と、我らが兄弟はピアノを習っていた。中学生になってから、母親が子供がピアノを弾けたらかっこいいかなと思ったと、ちょっと夢想が入っていることを聞かされて、理想通りの子供でなくてごめんよと思ったというか、

ゲイの人が、彼女いるか聞かれて、恋人はいる、と遠回しに答えるのが面倒臭いというか、

些細なことほど重大事であるのか、相手に合わせられない自分の状況に忸怩たるものがあるのも分からなくもない。

理想通りに生きられない自分と、外れた感と。ダイバーシティが大事だっつーのも分かる。

でも、私に理想があるのと同様に、相手にも理想があって、それは尊重しあうのが美しくもあるような気がする。

少し否定される部分はあるかもしれないが、でも全体、人としての私は受け入れられたい。

私は自由を大事にするので、私の自由を大事にするのと同様に相手の自由(思想)も大事にしたいし、私が尊重されたいのと同様に相手も尊重したい。

相手が否定してくるんかな。でもそれはそれでしょうがない。私が私であるのと同様に、相手も相手の生き様があり、私の理想を強制するわけにもいかない。

で、個人として尊重して、誰とも繋がれなくなって孤独になるのかって、それなりに私は相方とくだらない話をする時間が貴重であるし、私全部を理解してもらおうとも思わない。

ブログ大事だけど。

一部を棚上げしても、全部を否定しない、関係を持つ意思を持つことが私にとっての人を人として見ることである。

私の人に否定されることがないという前提は一体どこで培ったんでせうか?応用きかないかな?とぼんやり考えつつ。

違うことを面白がれる社会の成立条件てなんだろ?

突込みビリティ(正当性)を発揮しなくても脅かされることのない社会はやっぱりみんな何か一つは信じていることがある前提はあるのだろうか。

社会学かにゃ♪