正義の発動条件

前回の記事はカウンターでしかないかな?

確かにバカな人はいるかもしれないけど、人を批判して、自分は正しいつもりで、それって見苦しくね?的な人が観測範囲にいたもので。

説得しようにもたぶん説得はされなくて、平行線で、トランプさんの支持者を見ていて思うんだが、僕は賛成できないにしろ、それが多数派の国になっちゃったら僕はどうしたらいいのかなって頭の隅っこにおいている。

ちなみに、ダメな国を愛せって、宮台先生が中国人の人たちのエリート教育が、中国のだめなところを徹底的に教えると言うのが引っ掛かっていた。

日本は素晴らしい国だからって、誤りを指摘できなかったら、ダメなところの学習ができなくてあほな同じことの繰り返しである。

前回の記事は、ダメなところも個性の一つで、個性がないのっぺらぼうなんて愛せないやんでしたんですが、まあ、それは事実であるが、最終的に受け入れるにしろ、ダメの指摘はしないとね。

犬も歩けば、棒に当たるんだよなーと思った、

一神教社会では、人びとの思惑や幻想、願望は、絶対的な存在の前で相対化されると考えます。

つまり人間は、神の前で誤りうる存在です。

誤りうる人間が、人間をチェックするというのは、根本的に間違っているわけだけど、背後に自分が正しいと信じる神が控えているから、相手を批判できるのです。

人間が神の威光で、他を圧するのが一神教であると思ったが、人間が間違いうる存在であることを前提に考えるのも当然ありなわけだな。

人を批判するとき、何を根拠にするのか。

神ならぬ人間は間違う。当然、自分の正しさに確信があるわけでもないが、その時の正しさに反する根拠に射程の広い神を持ってくることが可能みたいっすよ。

キッツいわけですよ。

例えば、自分でお金を稼げてないって、そこを負い目に考えずに、自分の価値観を追及するって、世間に否定されているから、世間とは別の価値観で生きようとしていると言われたら、たぶん、そこで、開き直るまでには葛藤があると思う。

開き直るしかないんだけど、そのとき、稼げている人たちが絶対と思わずに済むには、やっぱり絶対的な神がいたほうが一般人も相対化できて、すっと納得できるわなー

自分で考えたら、孤独なるのは当たり前っつーのが橋本治だし、近代人がみんな耐えているんだろうけど。

って、

それは、土居健郎自身の本来の定義での「甘え」の世界であり、その意味では比喩的には同性愛の物語だとも言えるだろう。あるいは、ジャック・ラカン的な意味でのファルス(phallus)のない世界でもある。こうしたすでに古典的な精神分析的な世界から見れば、この小説には、普通に個の輪郭をなさない地獄が描かれているだけにすぎないとも言えるが、映画では逆にそうした「甘え」の郷愁に焦点を持っている。
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2016/09/post-0813.html

で、僕は、近代人の孤独が辛いんだか、に焦点が合っちゃて、共同体の時代は実感としてないわけだけど、「個の輪郭を為さない地獄」の想像力はあまりないと言っちゃうスクールカースト下位で好き勝手やってたぜ、

なわけで、自分語りをすると、僕が大して地獄も感じず、孤独を感じず近代人をやっていけているのは家族の愛があったからか、なんか他に理由があるんだろうな、何だ?

始めのお題に帰ると、僕は集団で反論を言うことは、集団に忠誠があるとするなら言わんでもないな。

自分に確信があるわけでないので意見を通そうとするわけでもないが、池に小石を投げるぐらいはする。

普通は忠誠ないから言わないことが多いけど。

そういう意味では、国に対する忠誠とか、いまいち実感できていない。

外国でたら愛国者になるっていうけど、同質でない他者への想像力が刈り込まれているか。

と言うか、密かに危惧しているのだが、北朝鮮にミサイルの一発でも打ち込まれたら、発狂するかもかも的、恐怖有りまくりで、

忠誠を持たせるには、やっぱり敵の認定をした方が集団はまとまるんだか、

やっぱりダイバーシティで一つになるシンボルって何やろ?

ユウタロスさんは、外にも行けるけど、あえて会社にとどまる社員ラブっぽかったが、いろんな価値観があって、あえて選ぶ理由がある。

やはり大きな集団への忠誠は難しいんだろうか。

厳しかったときに優しくしてもらえた記憶があれば、かなりポイント高いよな。

仲間であることはワンピース的で広く受け入れられるとは言いますが。

役に立つ自分でない、自分の個性が受け入れられたらって共同体的に戻ってきてしまった。

持ちつ持たれつと、役に立つの役割の中間、あえて集団を選ぶ市民かな?

一かゼロかでもなく、限りある責任と権利か?