秋津の理想

親鸞は、露悪的に言うなら、「信じると言うものなども自力の業ではないか、そんな信など私には関係のないことだ」ということだ。
 他力とは、「面々の御はからひなり」を越えたところに現れるのであって、信じるか否かを問うような安穏としたものではない。

何でその言葉に納得できたのか、しんじることができたのか、どうしてそう考えたのか、自分自身では意思して「納得」することができない。

皆の言うことが正しいのだろう。でも腑に落ちないとしたときに、ぼかー従わねーぜ、の反対に、他がどうあれ、自分にはもっともだと思えたので、協力する。

うーん、怪しい宗教まっしぐら。

まあ自分の価値観で生きるってそんなもんだと思う。

橋本治が自分がいいと思った宗教は皆に勧めないのは、自分一人だけがいい思いをしようとしているのだはないか、と書いていたような、

自分にとっていいものが他人にとってもいいものとは限らないし、の他人の尊重は、実はあんまり他人のことを自分のことと考えていないのは認める。


ブログでピラピラ好き勝手考えても、一切リアルでは口にしないおいらは、自分と同じことを考える他人の想像力がないというか、まったく違うけど同質の他人なんてフィクション(、、、でもないか)(橋本治)と世界は広いし、で、

でも、家族の愛を信じられるので、僕は自分の正義を押し出そうとはしないのか、すでに自分の場所はある。

というか、病気でレールを外れかけたとはいえ、今の場所は居心地がよく、これ以上のところがあるとも信じられず、なんとなーく保守的になっている。

世間からつべちー目で見れられることをあえてしようとは思わない。

自分が思う世間の間でしか、自分で表現できないのは息苦しいかだが、別に世間が自分を虐待することもなし。

自分って恵まれているというか、会社を首になったら、即底辺の実感がまるでないというか。

「愛と幻想のファシズム」というか、維新の気持ちも分からなくはなくなったけど。

社会保障費で国が回らなくなるのは分かって、一からシステムを組み立ててもらいたい気持ちはある。

でも、調整に調整を重ねる泥臭い仕事がマシじゃねというか、自分がやるとなったら、逃げてきたんだけど。

保守的というか、自分の場所があるので、あえて、自分が正しいと思ったことというより、世間の懐の広さを信じているんだろうな。

世間を動かせなかったらしょうがない、私のやり方が違ったのだって、私のリソースが許す限りでは、水にパンをまくけど。

(ふ、最近、いろいろと動いるので言ってみました)

世間の目が届かないところで、自分は自分のやりたいことをするとしたときに、別に強硬に主張はしないが、自分の信じるところは行っているかなー

偽善、結構だっつーか、他人の目を気にしてどうというわけでもないと言いつつ、杉良太郎のスイッチインタビューはDvdに落とすけど。

私は私、他人は他人で、自分の信じられるものがあったら、世間から排斥されない範囲、世間を動かせる余地を残しつつ、殉じるのが秋津君の理想形です。