神の声を聞く

って危ない題名だな。

私が聞いたんじゃなくて、不条理に対する人の感性になるのか、静かなる細き声にこけるのか、結論は、だが。


カラマーゾフの兄弟は、アリョーシャのコンバージョン?まで読んで脱落したところは覚えているが、具体的な内容は忘れた。

どういうときに神を感じるのか?本当の宗教だと感じるのか?を私なりに思うと、奇跡の体験をした、ことじゃね?とまず思い浮かぶ。

条理、確率を外れたことが起きる、未体験ゾーンのような、まあ美しさとか、あるいは異様な高揚状態とか?

私は、確率は確率で、たまたま起こったことだと処理したいと思う苦労を知らなさだ。

確率を超えたとき人が関係の法則をなりたたせるための人間の納得回路っぽく思う無神論者だったりはする。

というか、誰かの意図で今の状況があるとも思いたくない私の神様である。

まあ、苦しい時に、それでもめげないとき、何かに守られているなーと思わないでもない。

自分はなぜそう確信するのか。感情だって思考だって訪れるもので、自分の意図を超えて、自分がある。

と言いながら、被造物の感覚が分かるようなと強気だけど腑に落ちない。

私が私であることは何によって保障されるのか。ボケたら私でないのか、という問題は、記憶を失っても私であるのか。

私の根拠は記憶だったりするのだろうか?

私の確かさは何だと言われたら、予期することが起きることなので、不条理はやっぱり神で処理したくなるのか?

私が私であるのに、私以外の力が働いている。

自分万能主義でない、私の思い通りにならないもので生かされている。

私は器でしかなく、なんかよく分からない道理で、よく分からないものを受信して動いている

(あ、あぶなくなってきたぞの午前3時、寝れなひ)

それを神と結びつけるのか、受信したことは受信したことで迷いがなければ、誰かの意図が私をそうさせている、させられ体験。

自分の理性で納得したことが、感情的に処理できないこと、あるいは理性で演算できなくて感情的には、心の確信的にそちらになるだという思いをしたことがある。

訪れたものというか、呼ばれたというか、うーん呼ばれた奇跡の体験かー

というか、苦しい体験をしても、人格が荒廃しない人を見ると、奇跡ってあるのだなーと思う不条理を信じるしな。

あるいは、理性で納得できないときの確率に当たったとき、人はどうやって自身の価値観を守るのか。

不条理に耐えられるのか、な、寝れない午前3時でした、深夜の手紙はあぶねーぞ