どんな時でも楽しめたらいいな

「誰が弱者か」http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2012/07/post-25b7.html
「君は今という時間、不可避の選択をしますかね」http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2012/07/post-e24c.html

は、私が極東ブログで最も好きな記事である(続き物)。いや、アクアリウムを託されるクリスマスストーリーも捨てがたいけど。

個性が「個人または個体・個物に備わった、そのもの特有の性質。」(デジタル大辞泉)であるならば、その人の人生であるとは、他の誰とも重ならない特有性があること、

なんかね、幸福は一つであるけど、不幸はさまざまなバリエーションがあるっつーのなら、不幸に襲われること、が独自性のような気がしないでもない。

前回、ダメな自分を信じること(認めること)、なんとかなることを信じることって書いた。

何とかなるを信じることは、人生がどんなものであっても楽しめること、というにはたぶん不幸は大きくて、人生を楽しめたらいいな、と思うこと、かもなんだけど。

私の不幸を認めて、それなりに、人生の良さを引き出したい。

ええ、最近5時前後に起きているんです。出勤するのに歩くと、汗も出るが、この時間帯、涼しいです。露が下りているようなというか、しっとり、空気が澄んでいる。

散歩しても楽しいだろうな、と思いつつ、しないのであるが、たぶん、それはどんなときにも開かれている人生の楽しさの一つだろうなって気はする。


海燕さんクラスとなると、いろいろ粘着とかされて、不幸な感じのする人に心を痛めたりするんだろうな、とも思う。

私は、私の価値観(人生の優先順位)は人とは違う。だけど、人から見たら私はおかしいのだろうと、わたしから見ておかしい人は等しく、人の価値観を裁定する権利は、私にはない。

そんな人もいるんだろうで、まあ、あんまり遠くで幸せになってもらいたい人というのもいるだろうけど、近しい距離に居たら、私の価値観を認めてもらいたいのと同様に、どんなものであってもその人の価値観は受け入れたい???

いや、そもそもペトロニウスさんの文脈で言えば、子どもがLGBTだったて認めることであるかもだけど、わたしから見て不幸になると思えることであっても、たとえその人が不幸になったとしても、私はあなたを好きってことを表明したいというか、

まあやっぱり限界もあるんだろうけど、というか、不幸を認められずに苦しんでも、私は大学受験失敗で、変えられないことを冷静になりたくとも冷静になれなかったことを思い出しつつ、

不幸?を濃厚に味わう人生というのも、まま、本人的にはどうしようもないことで、そういう人生もあるってことを、認めるしかない他人であった。

しょうがないってことはあるよね、犬にかまれる人生というか、本人の選択ではない人生って、個性的であることだ。

尊敬する他人を尊重するのは当然で、尊敬できない他人も尊重するのが、リベラル?であるってことになるんかな、知らんが。

橋本治は青空人生相談所で、自分探しの人を支える大きな愛、めったに持てるものではないようにも書いていて、たぶん、会えたら僥倖の、愛ってのはあるんだろうと思いつつ。

なお、私は異性とイチャイチャする夢を見たことがない、うーんなんかそのコースは外れてしまったのに残念感がないわけでも、です。


(追記)
私から見て不幸でも、本人的には幸せなことってままあるんだろうし、私の押し付けはしたくないなというか、

人に迷惑をかけるのはいかんとですよ。

あと、私は、あなたのやり方は認めるけど、それを私に押し付けようとしたら切れます。ぶちっと