変えられることに対する拒否

人生を危険にさらせ!

人生を危険にさらせ!

人に強制的に変えられることに対する拒否、っつーのを頭の片隅に置いている。

ブレストなんで面白く転がせるかは少し自信無しです。


人は変わっていく存在、変わらない存在、どっちの説を私はとるのか。

というか、最近、相方が拾いものだということをありがたく思っている。

私は相方に対し、人に対する愛を持っている人かというのは見た。

最近、隠れ要素として、人に合わせられる素直さや、人は人だと押し付けがましくないことも見ていたのかなーと。

二人で生活するのに、合わせていく努力もせなあかんしな。

人に合わせていくことに対して拒否感があると生きづらいよね。

強制的に、と言われると反発するのか、それは何の権力性によってか。

人とぶつかることに対して拒否感のある僕は、面倒なことにならないのならさっさと折れるか。

それで、変わることはセッティングされているようで、変わることと変わらないことの選択肢は僕は選んでいるようで、判断する「僕」は変わっていない。

僕として、折れない部分は変わらない。自分なりに誇りのある部分を変えろと言われたら、どうするんだべ?

って、僕の辞書によると、損を承知で曲げられないことがあると「生きる意味」ができるんだが。

個性があるということは独自性があるということで、独自性というのは他人との差だ。

自分なりの物差しがあること、と言えば飛びすぎかな。

比較できない至高のものがある、、、私はそれが持てずにもやもやしているんだけど。

ポリシーが多ければ頑固な人で、皆が納得できるポリシーの人なら芯のある人、か。

まあ、至高がある時点で、他人の目なんてクソ喰らえだが。


ただ、そんな小難しいこととは別に、他人に合わせていくことは楽しいことでもある。

自分一人なら自分一人の思考回路から抜け出せない。

人に合わせることは、自分の新たな面を発掘することでもある。

全く興味のなかったクラシックを聴いたら、思っていたよりスッキリして聴きやすかった的、なこともあるかもだし。

退屈だった人生に刺激があるし、悪く言えば自由すぎて少し重苦しかったのに、方向性が与えられる、縛られる良さもたまには味わいたくもなる。

一つポリシーがあったら、それ以外は人に合わせるのも悪くないよなーというのが秋津君の見解か。

日ごろ、合わせてないからだろーと言われたらその通りだ!の週末婚であった。

読めない状況があって、それを読みこなし、自分の思う方向にはどう転がすか、状況に合わせて自分の行動を変えていくのもまた楽し