教養は役にたつのか

[書き直し]あり
青字で追記しました。


教養の両輪は、知識と、適当な知識を見つけ出せる抽象化能力だと思う。

目的を達するために知識は必要か?

英語は1万語覚えたら、新聞の92%のことが分かるだったか、日常は1万語の組み合わせで理解できる。

世界は1万語×9999語×9998語×、、、と無数に表現できるが、その自分で考えられる組み合わせは、実はそんなに多くない。日常に縛られる。

私は

忘れられた日本人 (岩波文庫)

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で、民謡だったかは、せっまい先の見えない山道で、自分がいることを知らせるために歌われていた(と覚えているが不確かはいる)そんなの言われるまで想像がつかないやん。

日常に縛られて、何が困るか、これからの想像力が限られることだ。

出口さんはムール貝を使った女性向けのラーメンは、ムール貝の知識がなければ作られなかったと書いていた。

これからの想像力は、知識がなければ考えつかないこともある。

ただし、誰も考えつかない考えをするには、誰も考えつかない知識を持っていなければいけないとするのならば、無駄に自分の住んでいる集団と違う知識を手に入れないといけない。

事前に自分の住んでいる集団では価値の分からない知識を持つ必要がある。

価値の分からない無駄に役に立たない知識ばかり身に着けても、役に立たないことに時間ばかり費やしても、目的を達することができない。

というか、知恵と知識と言われるように、ある状況と、今の状況との共通点を見つけ出して、ある状況の解決方法を適用することが必要ならば、抽象化能力も必要だろ、なんだよね、教養には。

ラーメンの作り方で、ラーメン店回って探求の方法を取らず、西洋料理の作り方を持ってきたように、料理の作り方と大雑把に頭の中を探るというか、探り方の方もちょっと変えないと解決方法の知識に該当しないと言うか

教養の両輪は知識と抽象化能力である。

(なんか久々の割にさえないなー本当は個人と集団についてのネタが有ったんだが、1週間も置くと、書き出し忘れちゃったのよ。)