無意識を信じる

秋津君、4月に引っ越してから安眠できていないのです。

毎夜一回はトイレに起きる、のはまあおいておいて、なんか、起きなくてはいけない強迫観念が漂っているのである意識下に。

と、なんだかボケるってことが想像できたので閑話休題


秋津君は考えるときの連想は、言葉の感覚なのである。

一時期、薬の量が多かったときは、快・不快の二軸だったんだけど、減らしてから、大分、元に戻りました。

結構、緊張度の要素が大きくて、喜怒哀楽とかの感情の深さとかかなーり豊かになりまして、連想回路もばっちり働きます。

いや、普通の人の連想とちょっとずれるので、会話が成り立ちにくい風味で少し困るけど。

営業だったときは苦労していたというか、結構飛ばして話す同期とか、分からないと言われます。(finalventさんごめん)

で、

いま私たちが考えるべきこと (新潮文庫)

いま私たちが考えるべきこと (新潮文庫)

考える、としたときに、まず人の考えることを想像して、その考えに突っ込む人と、自分の考えを言う人がいると書いていたような、私は完全に後者である。

センター国語の偏差値は75だったので(2年前に先輩がセンター国語の偏差値70あったと言ったので、は、私もそのくらいはあったはずだが、70なんてとって当たり前だろで覚えてなかったけどで調べなおした)、自分視点で適当にしゃべっても、大外れは少ないというか普段はあんまり気を付けて話していない。

で、自分視点でしゃべっているので、ストレスほとんどないのだ。周りは迷惑しているだろうけど☆

私が人に合わせるってそんなもんである。

いつぞや、夢の中では起きたら覚えていない夢のルールの中で生きている、と書いたような、夢うつつのときにああこれからいつものように××しなければ、と夢のルールを思い出して行動している。

で、この夢のルールは感覚的なものがせり上がっているというか、ええ、最近の強迫観念はスマホのアップデートを相方に注意されたのをアップデートをしなければいけないと勝手口のほうでなんか行動しなければというのと、なんか記録しなければいけないという2つの感覚があるようなのだ。

寝ぼけて××しなければと、起きるほうに意識を持っていくのである。起きたら何をしなければいけないのか胡散霧消なんだけど。

なんだか無意識なんて信じてなかったけど、あるのではないか派にこけてしまったよ。

夢うつつで感覚に振り回されて起きていますと、ボケるってことは自分には何かの感覚で頭がいっぱいになって理性の領域で制御できないことなんだろうなとなんだか想像できてしまった。

本人的には自分のしなければいけないことが曖昧模糊でもあって、他人から否定されたらムキにもなるんだろうな的、ボケたとき、周りが邪険な態度に取られないといいなとおもったというか、まあこの感覚がある限り、私は私であることに変わりはないんだろうな本人の視野的には。

まあなるべくかわいがられる最期を迎えたいが、こればっかりは本人の意思では決められないのでしょうがないですね、と今日は更新する元気があったのでというか、竹田青嗣ペトロニウスさんで長文書きたいんだけど、うーんめんどくさくなっていたので延期したのでした


[追記]

何も考えずに書いたらこんなもんです。私が飛ばしたら話が通じないのは、このブログのような形で、一人でざっくり独自の思考があるのをいう人は限られるんだけどー偏った情報源とで、前提が共有できないんですねというのと、普段は抑えているので、そんなに飛んでいないけど飛ぶ時もある、ぐらいかな。

夢の感覚はなんか皆さんどうなのかな、夢の感覚は、リアルでの出来事を取捨した感覚と通じている、情報処理しているんやろうなぽく