アイデンティティと他人に対する信頼
秋津君はある種の論理的な人、頭の切れる人からの第一印象は悪いことが多い。
班別討議とかの場で、それなりに思っていることをピラピラ言って、それは頭の切れる人からは分かり切っていることだからだ。
まあ、全て思ったことを言っているわけでなし、空気も読んでいないわけじゃなし、それなりに場を過ごせば当たりの発言も出るので名誉挽回もできると思ってこそのピラピラなんだけど。
(こないだも具体例があったのだが省略)
秋津君の頭は凸凹があって、人から見て分かり切ったこともあるが当たりもある。だけど本人からしたら今までなかった意見で当然だから言わなかったのか見落としなのか分かんないので、空気感の許しがあれば、しゃべる。
で、なんというかきちっりした人から冷たい目で見られることが多いような気がする。
有名なキラキラ女子の本が108円だったので買ってみた。
([し]10-1)私たちがプロポーズされないのには、101の (ポプラ文庫)
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032 彼の好みを、ひとつも受け入れていない。
(略)
とはいえ、自分が自分でなくなるような気分になるうちは、突っぱねていいでしょ。そういうときは、自分がまだ他人と人生をくっつける準備ができていないか、その人が結婚相手じゃないかのどちらかと思うのですよ。恐ろしいことに、すんなり結婚できる女は、多少男の注文を聞いたところで自分が自分でなくなるほど脆くはない。まるで大物政治家のように大局を見ているのです。
094 内心、彼には何も任せられないと思っている
(略)
未婚のプロたちが彼に何も任せられないのは、自分の思いどおりの結果が出てこないからです。未婚のプロ特有の、先手を読んでベストを導ける能力も手伝って、私たちは「準備が悪いことが原因で、思い通りの結果にならないこと」を嫌います。
(略)
私は既婚女性たちの、欲の手離れの良さを心から尊敬します。話が通じない異性(夫)と生活を共にしたり、放置したら死ぬ生き物(赤子)を育てたり、縁もゆかりもなかったじいさんばあさん(夫の親戚)の話を聞いたりと、既婚女性は何手先を読もうが、一時間単位で裏切られる相手と向き合う毎日。未婚のプロ以上に負荷の高い生活をしているので、彼女たちは思いどおりにならなくてもたいして腹を立てません。だから「いいよ、任せるよ」と他人に物事の行く末を委ねられるのでしょう。
1年生の秋津君はまだ(?)練れていないが、結婚した人って人に対するこうでないといけない感がないというか多少自分の考えからずれた人でもどうしてそうなるのか関心を持っているのかがある、自分の考えがベストでもないことを知っているというのかがあるかを知っているような気がするのだ。
もちろん、未婚女性でもそんな人がいないわけじゃなし、看護婦さんとか自分が納得できないと動いちゃいけないきっちりしなけばいけない人もいるけど、結婚した人は、(最近の秋津キーワード)多様な「ありのまま」をとりあえず受け入れて、こうでなければ感がない。
で、他人に対してこうでなければ感がなければ、というのと、自分に対してこうでなければいけない感がないのは近似値のような気がする。
自分に対してこうでなければ感というのはアイデンティティで、
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障害の受容―その本質と諸段階について―という章があった。
実際にはすぐ後に述べるように「受容」とは実は「克服」であり、「あきらめ」とはむしろ対極にあるものであることが忘れられてはならない。(略)
あきらめと正反対の対極にあるのが「居直り」あるいは自己の現状がそのままで最高・最良でありなんらの改善の努力を要しないものであるかのようにふるまうこと、現状そのままの是認である。(略)
日本語の「受容」はそれとやや異なるが、「取りこむ」という言葉に示されているように積極的な同化という意味を持っている。(略)
より具体的には「障害が不便であり制約的なもの(inconvenienncing and limiteing)であることは依然として認識しており、それを改善するための努力も続けているが、今や障害が自分の人間としての価値を低めるものではない(nondebalaluating)ものと認識でき、そういうものとして障害を受け入れる(承認する)ことである。
いや、改めて書き抜くと自分的にどうしてこの文脈からアイデンティティが出てくるともおもったが、人生を生きるということは当然あると思っていたものを失う過程で、今までの自分でなくなることだ。
それを受容する過程は、人の生き様は多様であって、自分の持っているこうでなければ感を克服していくことじゃないかと思ったんである。
自分にこうでなければ感がないことは、他人に対しても持っていないことが多くて、それでもそんな他人を受容する、他人に対する信頼があるのではないかと