考えること
(追記しました)
ブログを書き書きしていると、後ろの観客がポエム、とか私は私でほかの言うことを聞いていない気味じゃね、とか言うわけですよ。
ポエムを書いて何が悪いんじゃ、秋津本体とネット人格秋津君は違うのだよ、と言い訳をして、恥ずかしいので、自分を正当化してみる。
その前にっと、あるがまま現状を受け入れて、諦めるんじゃなく、現状の改善を考える希望を持つってどんな聖人じゃいって感じだわさ。
秋津君アラサ―、まだ若いからか、若い子はすぐにルサンチマン、理想を夢見て現状否定に走りそうな、あるいは悟ってあきらめの境地とか、秋津君もあまり人と付き合わないからさーどうなんしょ
まあ、そんな目標はあるということで。
あと、秋津君が宮台真司を知ったのは大学二年だったんだけど(テレビ朝日が映らない地域だって日本にはあるのさ☆)、大学院は社会学まなびてーと思って社会学入門を見るに、なんかちげー
宮台真司や佐藤優の神学チックなところ、哲学関係の問題意識が妙にはまるのが社会学は関係なかった。(あるいは東大社会学は特殊)
宮台がどこで言っていたか言っていなかったか、区別することが人の原罪(言葉で考えること?)だったかは本当にそうだよナっぽく大好きだったりする。
売れてるっていうちくま新書の現代哲学の本を見ても、かすらない、哲学的な問題意識って、人の関心の最たる自分だけが気になるところで相性がでかいんすよね。
永井均も読む分には面白いが、自分で永井の考えを批判する思考回路にはならないぐらいには遠い考えなんすよね。そんな考えもあるねっぽく他人ごと。
正しい、とはどういうことか。
まあ道徳的に正しいというのは横においておいて、ある問題に対し、起こった事実を当てること、や、未来の解決策を当てること、つまりは現実的に起こること、起こったことを当てたりすることだと思っている私は。
AならばBが起こることを当てる。
しかし、人間の頭なんてたかが知れているので、支店長の機嫌が悪いのはなぜか。親知らずが痛んだからってわかるわけない。
無数の可能性がある中、正しい答えが分かるわけないし、車をこすったのは、今日に限って渋滞があったので脇道に入った、狭い脇道でたまたま車と行き違った、急いでいたのは、閉店前にスーパーに寄らないと欲しいものが買えない、急な仕事が入ったので遅くなった、
なんかが起こるときって大概いくつも理由が重なって、どれが主原因か分からない。
また、解決策を当てるも、売り上げを伸ばすのにたまたま円安になったとか、天災でライバルの工場が被災したとか、要因がいくつもあってこれぞ、というのは難しい。それが秋津君が思っても解決策を実行できないことならなおさら証明できない。
秋津君の考えも秋津君はこれかなーと考えても、秋津の観測範囲ではよく起こることであっても、東京では聞いたこともないことが多そうだ。
でもそんなこと言っも、東京人の常識を秋津が実行しても、東京での結果は再現できない。
秋津君は秋津君なりの世界で起こったことではかるしかない。
東京人の言うこともそうだよな―とは思うが、同時に秋津の世界で再現性のあることを追及してみたい。
誰だかわからない大勢の決まりに従うより、秋津君が納得できる、失敗しても自分のせいだと思える行動をしたいし、自分なりに世界の法則性を見つけてみたいと思う。
(追記)
万人に正しいこと(事実)を当てる証明はできないけど、自分なりの事実の法則を見つけるのが考えるってことではないかと思う。
大事なのは正しいことではなく、違う考えの人が協力して一緒のことをすることで、
僕は、その問題の主原因はこっちではないかと思うって発見するのはむちゃくちゃ楽しい。万人の真理でないなんちゃって真理だという余技ですよん☆
ぼかー真理の探究者で、別に説得性のある考えがあったら、そっちに乗り換えるし、頑なってわけでもないと思うし。
どちらかというと秋津君は、人の言ったことを鵜呑みにして、ごねれば良かったのに、と言われたりもするキャラです。
人の言うことも尊重するので、(ぶつかりたくないとかで)合わせちゃうんだよなーネットでの発言はヤバいんですが。
まあ人に合わせることにつかれた秋津君が、好きかってやる場がブログということで???。
(本当は「飛躍する文章が好きだ」http://d.hatena.ne.jp/akizu/20090226/t
「どういうことが考えるか」(http://d.hatena.ne.jp/akizu/20150221/p1)を焼きなおそうかと思ったんだが、またヨソごとにこけちまった
飛躍する文章は大勢の人が良く起こると思っていることをつなぎ合わせるのでなく、その人当人の悪く言えば思い込みだけど、そんな思い込みなくして、毒にも薬にもならないことなんて詰まらんやん。
そういうのを読みたい人は新聞読むやろし)