対等の関係

幸せを測る指標として、選択肢が多いことをあげられるような(http://d.hatena.ne.jp/akizu/20141206)、秋津君は人から決めつけられるのが大嫌いである。

自分のしたいことを禁止された思い出もないが、禁止は絶対ヤ!の人である。

「課長の会話術」で人によって接し方を変えると書かれていたが(http://d.hatena.ne.jp/akizu/20140322)、人の接し方が一種類しかない(という人も少ないだろうが)、人によって動機や好悪は異なる。

客相手だと、引き出しはいっぱいあって客のメリットから説明していくが、身近な人だと、自分の価値観の押し付け、気持ちを分かってもらいたい気持ちが先に立つのか?



秋津君にとって選択肢は多ければ多いほど良い。

しかし、自分にできないことがあるのは当然わかる。

(うーん、書こうと思っていたのと内容を変えます)

人の性格は生来と経験が微妙にブレンドされたものだと思っている。

先の予測を立て行動するのに、失敗した場合と成功した場合を考えて行動するか否かが決まってくる。

自己肯定感はどこから来るのか。成功体験が多ければ得られる確率は高くなる。

finalventさんが「違う肉体の人が自分と同じ記憶を持っていてもそれは自分ではない」と書いていたようなないような、ちょびっとわかる。

顔の美醜が性格に与える影響と同じ。

同じくベントさんが、美人の文章は分かる、と書いていて、それは私も感じる。

美人なら屈託のなさが文章が伝わってくる。

自分の容姿に否定的な人だと、どこか負い目?があったり逆に世間に対して反発があったりする。

(もちろん例外はあるし、女子校育ちの人だとないっぽい)

世間からのレッテルは辛く厳しい。

で、自分の運命を受け入れるか否かってどんな状況でも存在する究極の選択肢で、世間の荒波を受け流すにとっても厳しいが現状を受け入れることができたら屈託のなさにつながらないか。

そんなことを言っていたら七平やんどうなるんだ的に穴はありまくりの気がするがとりあえず無視る。

[rakuten:takahara:10344601:detail]中に

ボランティア―もうひとつの情報社会 (岩波新書)

ボランティア―もうひとつの情報社会 (岩波新書)

の紹介があった。

『ボランティアに楽しさを見出した人は、ほとんど「助けられているのはむしろ私のほうだ」という感想を持ちます。著者にとって「ボランティア」とは、「助けること」と「助けられること」とが融合し、誰が与え誰が受け取っているか区別することが重要ではにと思えるような、不思議な魅力あふれた、関係発見のプロセスなのです。』

与え与えられるての関係もあるか。としたときに屈託のなさって重要な気がするのである。

五体不満足乙武さんが介助してもらうのに屈託がなかったと大学時代のサポーターが書いていたような、

というか、日本は妊婦が「すいません」と下手に出ないと叩かれる、謙遜の文化の国なのだが、それもちょびっと引っかかって、
自分のせいじゃないしな、と、感謝されまくっても重いし卑屈になる必要はない。

自分の現状を受け入れたとき対等の関係に、なれる、かなあ?助け助けられる関係の、自分の位置が変わることを知っていることが実感できたらそれはそれとして自己肯定感にならないか。

で、ドイツのほうが今大変なのか?で、安全が自由より優先されて締め出されるのか、連帯の回路の可能性として

(頭の中の下書き通りに全然進んでない、、、)


[追記]

今の自分の悲しい現状にカリカリしないために、輪廻転生すると思っておくのはかなり有効なんですよね。

橋本治が今苦しくても次生では功徳がっぽくは書いていなかったかもだけど、丹波哲郎があの世の話を書いていたのは、人生が終わりでないと思っていたら今の世で人のために尽くせる(適当に覚えています)とか。

現状に対する執着を薄れさせるには?