「私」を中心とする
明治時代の人を何名覚えているか、覚えられていない有象無象は価値がなかったのか、というと、人が認める価値のほかに、自分が認める価値もあると思う。
(人生における過程と結果http://d.hatena.ne.jp/akizu/20151006/p1って書いて自分が書いていても内容を忘れていて面白い)
自分が認める価値っつーと、最近のビジネス書は、自分のしたいことの優先順位をつけろよっぽくもあるが
- 作者: 押井守
- 出版社/メーカー: 日経BP社
- 発売日: 2013/10/10
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (9件) を見る
- 作者: 苫米地英人
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2015/03/19
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- この商品を含むブログを見る
自分のしたいことの自分ってのは、「本当の自分」が否定されるのを思い出す。
自分が今思うことは自分の経験からしか言えない。
自分がもし××な経験をすると変わるかもしれない。
でも、今の自分から見て未来の自分なんて可能性の一つでしかなく、大勢の人がそうなる状況でも自分は違うかもしれないし、そうなる可能性で、現在のメリットを失う冒険ができるのか?
変わる自分と今の利益と秤にかけて、どっちを選ぶかは人の生き様だろう。
仕事ばっかりして濡れ落ち葉になったとして、それが自分の選択なら仕方がないように、ええ現在のメリットの追求は未来のデメリットでもそれしか選べなかった人生はある。
あああ、考えていたのとルートが違うっつーか、「自分の感覚」を大事にするのはニーチェの超人のようなことの気がして(読んでいない)、同時に「実存主義」のような気もする。
(ふははは、実存主義の本は「夜と霧」の人の本を読んだだけだけど、結構、自分ならこう詰めるというのが見えたかというか私は素朴な実存主義でないかと疑っていて)
実存主義はチェンジっつって現実が変わらなかったのですたれたようにも聞いているようないないような、finalventさんもまだ完全に否定されたとは言っていなかったような、実存主義の可能性について、自分は興味がある。
自分は自分でしかないが、他者を認めることは自分の意志(お互いに尊重しあうのは落ち着く)に含みという逃げ場は確保して、自分の限界と、変わる可能性をどれほど追い求めるべきか、夢が叶う結果が人生ではなく、分からないことを追い求める状態をよしとする、、、
いや、わたくし、現在プログラマーの卵なのよ、まずはVBAからってそのうちPerlはどうかと言われたんだが、一々打つのめんどいし、6月までにVBAのほうは何とかしたく、集中集中です。ブログ疎かになります