愛と寛容
僕はそう思えないんだよね。嫌なやつがいっぱいいて、そこで寛容(クレメンス)が問われてる社会がいい。
僕、愛と寛容を混用しているなっぽく。
自由とは、私が考え付かない素晴らしいことをあなたが考え付く自由ではなく、私が気に食わないことをあなたがするのを認めることだ。
それは、私があなたの気に食わないことをする自由を認めてもらえるのと等しい。
強い人が、環境を変えられる強さを持って行使しない
→気に食わない人の気に食わないところを変えようとしない、受け入れる
→相手(環境)をありのままに受け入れる
気に食わないありのままを受け入れる寛容さは強さでもあると思う。
他人のあるがままを認めないということは、他人を自分の願望で動くことを期待している
→他人をモノとしてみている
モノとしてみるってことは相手を尊重していないことなので、マズ―
相手を尊敬していないのに、尊重しろというのは、きっついことでもある。
でも、強い女は分からず屋であり、優しい男は優柔不断であるように、強さと弱さは表裏一体で、全く尊敬できない人というのも少ないと思う。
という私は寛容と愛の区別がついていなかったのであるが。
私は転校していじめられた時も、いじめた子は学級委員でいいんじゃないかと思っていたし(しかし1学期の委員だったらしい)、
焼肉屋で同僚に泣かされた時も(言い訳せずにじっと聞いていたけど悔しいものはあった)泣かされたことを忘れて、なんだか態度が妙だな、そういえばあんなこともあったなと思いだしたぐらい、別に人の好悪はない人なのである。
よく言えば公正であると思う。
でも、逆に愛することはできない気味だ。
愛はこだわり、執着やひいきであるならば、私はそれはどうもできない人である。
気に食わない相手に示す寛容さを示すことができなくても、それはそれで一つの人生だと思う。
自らを炎で焼き尽くすのも一つの在り方だ。
私のモットーはニーバーの祈りだ。
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。
神ならぬものは変えることができることと変えることのできないものを、未来がどう変わるかは分からない。
現実を認められるか否か。
変えようのないことを認めようと思っても、頭では分かっても心が納得できないことがある、と私は大学受験に失敗したときに学びましたのです。
自分の思うことは訪れるものであって、変えようと思って変えられるものでもない。
ならばその状態と共に生きるしかない人生もあるのではないか。
尊重する相手でもないのに、寛容さを示す、としかいえない、尊重する相手と交流がある、愛があると言えない環境はつらいと思う。
私は病気で社会的に無になる可能性が高く、そういう状態になったときに何をよすがとするかジーと考えている。
相手に尊重されなくても相手を尊重する。そりゃ、自分が尊重されるから相手を尊重するというのは、まあお子様のたわごとであろう。
自分としては寛容さを示すことを目標にするけど、健常者の側には社会的に無である人にも愛を示してもらうのを期待したいかなーどうなんでしょ?